絶望名言2の066ページ~068ページからのの転載です。
黒澤明が68歳のときに書いた「蝦蟇の油ー自伝のようなもの」(岩波現代文庫)というタイトルの自伝
を読むと、決して強い一方の人ではないんです。
意外なことに、幼い頃は身体が弱く、気も弱く、泣き虫だったそうです。
小学校の勉強にもついていけなくて、ひとりだけ離れたところに机と椅子を移されて、
授業中、先生はときどき、「これは黒澤君には、わからないだろうが」とか「これは黒澤くんにはとても無理だが」
などと言って、他の生徒たちがクスクス笑ったそうです。
しかも実際、先生が説明していることが自分にはわからなくて、悲しく苦しかったと、黒澤明は書いています。
朝礼では気を失って倒れる、ドッチボールのときはみんなからボールをぶつけられ、それをうけとめることもできない。
学校生活は地獄の責め苦だったそうです。
そんな黒澤明が変わったのは、図画の時間に描いた絵を、立川という先生がほめてくれたことがきっかけでした。
しかし、その先生は学校をやめさせられ、新しい先生は黒澤明の絵を徹底的に罵倒します。
それでも黒澤明は後に画家を目指すようになるのですが、美術学校、現在の東京藝術大学の美術学部ですね、
そこの受験に失敗します。
あきらめきれずに絵を描き続けますが、ついには挫折します。
黒澤明が強くなっていったのには、尊敬する兄の励ましもあったのですが、その兄は何度も自殺未遂をし、
ついに心中をしてしまいます。
身内の死ということでは、やさしかった姉も若くして病死しています。
黒澤明自身も、61歳のときに、自殺未遂をしています。もっと若いときに、もうこれで映画が
撮れなくなるかもという危機もありました。
そういうふうに、黒澤明は、決して悲しみを知らない人ではないんです。むしろ、
弱さも悲しみもたっぷり持っているからこそ、強さを魅力的に描くこともできたのかもしれません。
黒澤明が68歳のときに書いた「蝦蟇の油ー自伝のようなもの」(岩波現代文庫)というタイトルの自伝
を読むと、決して強い一方の人ではないんです。
意外なことに、幼い頃は身体が弱く、気も弱く、泣き虫だったそうです。
小学校の勉強にもついていけなくて、ひとりだけ離れたところに机と椅子を移されて、
授業中、先生はときどき、「これは黒澤君には、わからないだろうが」とか「これは黒澤くんにはとても無理だが」
などと言って、他の生徒たちがクスクス笑ったそうです。
しかも実際、先生が説明していることが自分にはわからなくて、悲しく苦しかったと、黒澤明は書いています。
朝礼では気を失って倒れる、ドッチボールのときはみんなからボールをぶつけられ、それをうけとめることもできない。
学校生活は地獄の責め苦だったそうです。
そんな黒澤明が変わったのは、図画の時間に描いた絵を、立川という先生がほめてくれたことがきっかけでした。
しかし、その先生は学校をやめさせられ、新しい先生は黒澤明の絵を徹底的に罵倒します。
それでも黒澤明は後に画家を目指すようになるのですが、美術学校、現在の東京藝術大学の美術学部ですね、
そこの受験に失敗します。
あきらめきれずに絵を描き続けますが、ついには挫折します。
黒澤明が強くなっていったのには、尊敬する兄の励ましもあったのですが、その兄は何度も自殺未遂をし、
ついに心中をしてしまいます。
身内の死ということでは、やさしかった姉も若くして病死しています。
黒澤明自身も、61歳のときに、自殺未遂をしています。もっと若いときに、もうこれで映画が
撮れなくなるかもという危機もありました。
そういうふうに、黒澤明は、決して悲しみを知らない人ではないんです。むしろ、
弱さも悲しみもたっぷり持っているからこそ、強さを魅力的に描くこともできたのかもしれません。