腹話術人形けんちゃんの日記

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源河朝達の生き方。恋に生まれ、恋に生き、恋に死ぬ。2020年02月02日(日)

2020-02-02 04:00:03 | 日記
源河朝達の生き方。恋に生まれ、恋に生き、恋に死ぬ。

 祖父(源河朝達)は、私の父の父である。1880年【明治13年】生まれです。
生きていたら135歳になります。1970年(昭和45年)に90歳で天寿を全うした。
 私が22歳の時だった。
ずっと一緒に住んでいたので、祖父の生き方を身近に見ることができた。
亡くなる前は、坂口安吾の堕落論を読んでいました。
 時々、祖父の部屋を訪ねて話を聞いた。東京で勉強していた頃に、寮の友人に「どこから来たの」と尋ねられて、「沖縄から」と言うと、「よく探して来たね」と言われたとのこと。
 ポーツマス条約の内容に不満を持った民衆が、日比谷の交番を焼き打ちしている現場にも居合わせたとのこと。
祖父は、首里にあった沖縄師範学校に一番で入学する。そして一番で卒業した。
 その後、東京高等師範【現在の筑波大学】に沖縄県から派遣されます。
帰ってから、沖縄師範学校で、図画工作を教える。元知事の屋良朝苗の担任をする。(3年間)、元参議院議員の喜屋武真栄も教え子である。
知事を辞めた後、屋良朝苗さんの自宅を訪ねたことがあります。電話一本で、源河朝達の孫だと挨拶したら、自宅に招待してくれた。
コザ市の喜屋武真栄さんの自宅も訪ねたことがあります。孫と電話で言ったら自宅に招待してくれた。野末陳平さんのサイン入りの本を頂きました。本の名前は忘れました。
 教え子が祖父について書いたものがあるので紹介します。
手工は源可朝達凡そ世の中に源可先生程優しい先生があろうかと我々は敬慕して居りました。頭痛のする学科の次に手工のある時はまるで楽園にでもいつた様に気も心も晴れ晴れとなって色々の手工品を製作したものです。
 祖父の日記が残されています。私が管理しています
祖父の日記帳の最初に書かれている言葉は、恋に生まれ、恋に生き、恋に死ぬ でした。
百歳まで恋心遂げて死ぬと書いてありました。
〔鉄の扉〕という琉歌集を2冊自費出版しています。その中の一部を紹介します。
1 朝夕水かけて 育てたる梅や よその鶯のとまて鳴ちゅさ
2 恋の無いん世界に生ちかより馬に 蹴られてやい死ぬせましやあらに
3 七八十までや若者のくばい 九十の年からや天下御免
4 いかなる丸徳の味の素やても 恋の味まかす味や無いさめ
5  若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか  注:空はカラと読んで下さい。
6  恋のある間や恋共に遊で 恋の無いんならはあの世いもれ
7 除夜の鐘ともに百八の煩悩  はらて元旦や朝日拝ま
8  先生がやゆら教え子がやゆら 互いにはげちぶる かたるをかしや
9 人殺す機械作る銭使て 世間御万人の福祉はかれ    注:銭(ジン)
10 朝夕我願や百才まで恋路 遂げて安々とあの世行ちゆし
11  若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか  注:空はカラと読んで下さ
12 銭の無いん里やバス乗やい遊べ 僅か3仙美人揃い
13 友人に先立たれ道迷て居すが  後生に行く道や知らに童
 沖縄師範学校から沖縄県立工業徒弟学校(現在の沖縄工業高等学校)の校長に転出します。
5年ぐらい校長を務めたと思います。鉄の暴風の沖縄戦を南部をさ迷いながら生き延びます。戦後は(1945年・昭和20年)毎日、日記を書いています。ラジオを聴いていました。
 先生がやゆら教え子がやゆら 互いにはげちぶる かたるをかしや の琉歌にあるよに
時々、友達や教え子と、桜坂に行って会合に参加していました。
 祖父はよくアメリカ世が良いと言っていました。戦前の沖縄、東京での留学生活、東京の小学校で教えたみたいです。
戦後のアメリカ統治時代(25年間)を経験しています。その祖父がアメリカ世が良いと言うのです。祖父は、背が高く、アメリカ人に間違えられたこともありました。穏やかな性格で怒ったことを見たことがありません。