読書の森

ああ無情 その2



徹は父親が癌で早逝した為、この新薬の研究に特に熱心だった。
恋慕っていた恵が洋の妻となっても、真面目な態度は崩さない、「仕事に没頭する事で心の傷を忘れたいのでは」と密かに洋は思っていた。徹は結構人懐こい性格で付き合いを断れない男だったが、あれ以来研究を口実に研究室の仲間と打ち解けた話を避けていた。

あれから15年過ぎてもそれは変わらない。ひたすら研究室にこもって仕事に没頭するだけだった。
ある朝早く出勤した洋は、研究室のドアを開けると興奮して目を輝かせてる徹と鉢合わせした。
「仕事熱心は良いけど過労で身体壊すぞ、道は長い」
「違う。道の果てが見えた。成功したんだよ!例のマウスの悪質な癌細胞が消えたんだ。それも全部。実験用マウス10匹だぞ!」
徹の目はキラキラを通り越して妖しげに光り出した。
「ちょっと、、落ち着け。嬉しいのは分かるが」
(まさか癌細胞全てが消失する訳はない)
それが洋の正直な感想だった。
(この男、研究に没頭し過ぎて頭がやられてしまったのかも知れん)

洋の勧めで安定剤を服用した直後、徹はとんでもない事を口走った。
「この実験の成功は、自分たちだけの問題じゃない。世の癌患者に希望を持たせる為に俺は研究成果を公表したい!」

(そんな事されたら、会社が出費した膨大な研究費はどうなるのか?公共事業をやっている訳じゃない、あくまでも利益優先が鉄則だ。こういう男を本物のバカと言うのだ)
苦い表情の洋はウトウトし始めた徹の腕に栄養剤と称して麻酔剤を打ったのである。

しばらく経つと徹は別室のベッドでコンコンと寝入り始めた。
それを確認後、洋は元気に動いている実験用マウスのレントゲン写真を調べた。確かに薬を投与後の写真に病巣が全く見られない。10匹全てそうである。奇跡的だ!
洋はゴクンと生唾を呑み込んでいた。これは売れる。

研究所の職員全員が出社した後に、洋は、徹抜きの臨時の研究室のミーティングを始めた。まず癌細胞消失実験の真偽を慎重に確認後、確かな成功であれば速やかに幹部に報告する事、徹の実験用フロッピーディスクをcopyして新薬の成分を詳細に調べる事、新薬申請を受け付けた時点で試薬のモニターを募集して効果を確認、その後の段階で商品化するか否かを決定する事、簡潔に方針をまとめたのだった。

そして、、社命で専門家の診断を受けた徹は過労による心神耗弱の為に有給の長期休暇を与えられたのである。
否やは無い、強制的なものだった。



長い休暇の後、河上徹は浮腫んだような顔をして、明らかに鬱状態にあった。
「水野君、僕はもう駄目だよ。全然頭が働かなくなってしまった。燃え尽き症候群かも知れない。
新薬の研究はほぼ完成している。そのフロッピーディスクは全て会社に寄与する。
ただし一つだけ願いがある」

「何だ?」
表面上穏やかに、内心ビクッとしながら洋は答えた。徹の長い休暇中、徹の素晴らしい新薬の製法を記録したオリジナルの記録は全て跡方もなく消去されている。
もしそれを徹が公にすれば、罪に問われるのは必定だからだ。

「つまり僕を海外留学させてくれないかと言う事だ。
厚かましいとは思うが、滞在費学費を出してくれないか?」
「大金が必要になる。それは上司と相談する。ただし会社の貴重な頭脳である君が在籍しているのが条件だ」

「へっ、貴重な頭脳かい。もう邪魔な用無しと思ってる社員をかね。洋、君のことはもう昔馴染みとは思ってない、恵君の事と言い、今回の研究の事と言い、君の悪巧みには辟易としてるよ。
いくらなんでもそんなゲスとは思ってなかったが。もう俺は人の良かった昔と違う俺になってるよ。
会社は俺の希望を粉微塵にした代償として、自由を与えて慰謝料を払うべきだ」
「徹、未だ治ってないのか?」
「何が?俺正常のつもりだ」

流石に洋は怒りを露わにして
「正常かも知れないがお前幾つだ!会社経験の長いいい年したオッサンが青臭い事ばかりほざいてるとしか思えない」
吐き捨てるように言った。
「潤沢な金をもらって、好きな国で自由な研究が出来るか、無一文に近い失業者として業界で相手にされない妄想狂となるか、どちらかだがね」
「ホントに好きな国を選べるのか?」
「嘘でない、ただし会社の許可がいるから、支社のある場所に限る」

徹の表情が和らいだ。
「希望の場所を選ぶ迄しばらく考えさせてくれ」




読んでいただきありがとうございました。

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