一週間後、徹が希望する赴任地を書面で申告した時、洋は目を疑った。
そこは日本の過疎地だったからである。確かに県庁所在地に連絡の為の支社は置いてある。
「君?」(一体何目論んでるんだ。この男。
なんで海外じゃ無いんだ?)
「何も考えてません」
「えっ」
「いや、つまり全世界とネットで情報交換出来る時代にわざわざ海外に出かける事はないと思い直したからです。
自分の体調が以前に戻れるとは思いません。海外留学は無理です。
、、XXは亡くなった親の故郷なんです。自分もそこで幼い一時期過ごしてます」
「しかし、、」
「あゝ、XXは最近大地震に見舞われた所ですがね。逆に今これ以上の大地震が起きる危険性が低い訳です」
しれっと説明する河上徹は、以前の彼と全く様変わりしていた。
洋の目前には鋭い知性の閃きがなど持ち合わせてもいない図太い男がいるだけである。
洋が上司に図ると、国内の方が目が届くという理由であっさり許可された。
結果、多額の研究費を手にした徹はXX県の北部に異動して、新薬開発に勤しむ事となったのである。
そして何事もなく、月日は流れた。洋たちのプロジェクトチームは夢の癌細胞撲滅新薬を実用化する為に一丸となって働いていた。
ただ、いとも簡単に徹が発見し洋が確認した薬の効能が、研究を重ねる程それ以下である事が判明していった。
洋が当惑したのはそれだけでない。
徹の転勤に関する妻の極端に敏感な反応だった。徹の異動先は極秘事項になっている。
そのためか、恵は徹の居所が不明なのを失意の彼が失踪した事を会社が隠していると思い込んだのだ。
そのためか、恵は徹の居所が不明なのを失意の彼が失踪した事を会社が隠していると思い込んだのだ。
年を経ても未だ娘時代のロマンチックな推理小説や恋愛小説を好む彼女にとって、徹は若き日の純粋そのものの青年のイメージがあるらしい。
しかも彼女は二人の男に愛されたが、野心を持つ腹黒な男(洋の事だ)に騙されたヒロイン気取りでいる。
別に口に出して言わないが、挙動の端々に現れる妻の不貞(?)な思いに、洋はイライラしていた。その怒りを思うに任せぬ仕事が更に募らせた。
一方、恵は何も喋らず不機嫌になる一方の夫に不満を募らせていた。夜間の仕事と称して仲間と遊び回っているのかも知れない。「どうせ私は夫にとっておバカなお飾りに過ぎない」本気で考えた恵である。
二人の心は遠く離れて、そして、あの夏の休みの別荘の発砲事件(オモチャのピストル)に至ったのである。
いそいそと彼を迎える恵の可愛い笑顔、初々しい恥じらい、彼を迎える時の柔らかで暖かな身体。
それらを洋は精一杯愛しんで、大切にしてきたつもりだった。
洋自身は己が地位や金に目の無い人間である事は承知している。
だからこそ、世間知らずの妻をしっかり守って働いてるつもりだった。
「どうせあいつは世知辛い世に通用しない何も出来ない女だから」
無視する事に決めていた。
無視する事に決めていた。
一方恵は。
あの時、オモチャといえ空気銃で撃たれた時に激しい痛みがあった。又撃たれた箇所に大きな黒いアザが出来てそれは1か月経っても消えなかった。
その強いショックが彼女の中に僅かに残っていた夫への愛情もセレブの誇りも雲散霧消させたのである。
かなり無計画だった彼女が本気で取り組んだ事は「横暴な獣のような男からの脱走」だった。
彼女は先ず持ち物整理、貯金を整理、頼れる友達に連絡、を始めた。
進める内に、それはとても細やかでしかも面倒な作業である事に気づいた。
第一、家の財産は全て夫が管理し、彼女の自由になる預金はお話にならぬ程僅かだったからである。
又友人にしても実情を洗いざらい自分が打ち明ければ、即夫に報告してしまうような「常識的」な夫人ばかりだったからだ。
そして、、、。
彼女の脳裏に閃いたのが懐かしい徹の下に行く事だった。
それは不倫とは程遠い感情で単に暴君(これが夫)から逃れて正義の味方(?これが徹である。少なくとも夫よりモラルがある、不倫なんかじゃない)と自分に言い聞かせる恵だった。
徹の下に行く為には当然住所を知る必要がある。発砲事件の後、黙りこくった妻を見かねて、洋は徹が国内で研究を継続している事を教えた。
恵は途上国で孤軍奮闘する徹の姿を描き、追い求めて海外逃亡する自分とのロマンスを勝手に想像していたので、拍子抜けした。
しかし「一度決めたからには行かねばならない」と密かに夫の手帳を盗み見て(スマホを弄ると即分かってしまう為)徹の住所を知ったのである。