丸の内に勤めると言えば聞こえは良いが、大手損保の代理店で連日あまり物分かりの良くない客に応対する仕事に追われていた。
たまたま事故の調査の為、関西へ日帰り出張した帰りである。
疲労感はかなりあったが、見慣れたビルの灯りが艶めかしく見えて、卓はこのまま帰宅する気になれなかった。誰も待つ人もいない殺風景なマンションに戻る気は全く起きなかった。
深い関係になった女は何人かいたが、彼は気ままな独身生活を捨てる気になれなかった。
「荏田君!荏田卓君じゃないの?」
聞き慣れた声に思えた。そんな筈はないと後ろを睨むと、ベージュのコートを着た女がベソをかいたような顔で卓を見上げていた。
「誰だったか(?)」会社の女の子じゃないし、女の子って歳じゃない、もっとふけてる。怪訝そうな顔をした彼に、ベソ書き顔の女は
「ごめんなさい。知人と間違えてしまったみたいで」
俯いたその顔をしみじみ眺め、卓はタイムスリップしたような思いになった。
「杉野、杉野さんかよ?」
女性の表情が一変して満面の笑顔に変わった。
「変わんないねえ、君」
「荏田君こそ」
そんな筈ないが、と卓は苦笑しながら女子高校生をエスコートするように、愛を駅前のレストランに誘った。
軽い食事をとりビールを呑んで、たわいの無い話をした。
お互いに独身だと分かっても、校則に縛られた高校生のように、何事もなくそれぞれ帰宅したのである。
翌月の休日の朝、愛から突然電話がかかって来た。
卓の勤務先で求人が無いか?と言う問い合わせである。
「無かったら他を当たります」と言う口調が切迫感があった。
彼は、在学中病にかかった愛が、仕事に恵まれず現在銀行の嘱託として働いていると聞いた。
「今は心当たりは無いが、相談に乗る。今日の午後会えないか?」
「そんな。何も用意してないし」
「用意って何がいるの?」
「だからずっと美容院にも行ってないし」
卓は思わず笑い出した。
「何言ってんだ。僕に会うのに美容院わざわざ行くのかよ。この前の君も美容院へ行ってなかったんだろう。おんなじ事じゃない」
「だって」
「じゃあもうやめようか」
「嫌!」
「エッ」
「行きます。行きますけど嫌いにならないで」
「何だよ」
「あのう。あまり伸びてきたんで自分で髪を切ったら失敗しちゃって。見せられたもんじゃないんですよ」
「バッカ!」卓は笑い出した。
「、、、」
「いいから。暇なんでしょう?」
「はい。じゃあ行きますよ」
妙な展開にはなったが、二人は学校時代に知っている喫茶店で会う約束をしたのである。
気取らずに会えると言う理由だった。
古びた喫茶店は空いていて、二人は又もタイムスリップした気分で四方山話をした。
愛は末っ子で、年老いた両親は新潟市に住む兄夫婦と同居していると言う。
「東京の家は処分して先に財産分与してもらったの。今はそれで何とか食べてるようなものよ」
愛は寂しそうに笑う。
「なんだ。勤めてないの」
「前の仕事、10日前に辞めているんです」
何で、と聞かずに卓は愛を見つめた。
電話口での会話が嘘のように、愛は東京駅で会った時と違って垢抜けて見えた。
短く切った髪形はディップでまとめて新鮮だったし、服装が着古しているがシンプルなワンピースだったのも可愛いらしく見えた。
「恋をして綺麗になったのか?だったらその相手は自分以外に無い」
心の中で卓は呟いた。
それが悪い感じでなかった。
愛は卓が実際に付き合ったどの女とも違って見えた。
全然女女した匂いがない。
どこか成熟しきらず学生の尻尾を収め切れない印象である。
卓は生まれて初めて、「この女を自分が保護してやりたい」という情熱がわいた。
肝心の就職の話は「心当たりの客先に聞いておく」で終わった。
ホッとした表情の彼女に、卓は思い切って言った。
「今日はもう少し付き合ってくれない?」
当惑しながら愛は素直に頷いた。
明かりが灯る頃、卓は普段いかない街の洒落たスナックに愛を連れて行った。
彼は、その日はそこまでのつもりだった。
計算外だったのは、そのスナックで愛が酔い潰れてしまった事だった。