狭いボックスの中で(勿論その頃は携帯電話はございません)、フリーズしてる俺がいるだけ。
何かに急かされた気がして、俺はメモを取り上げそこに書かれた電話番号を回す。
発信音が耳に響く。
間違って写してればいい、別の家にかかるから。そしたら謝るだけ。
そうじゃなければ紗栄子の家族が出ればいい、間違い電話と謝って切るだけ。
そして、こんな事二度としない。
つもり、、、だった。
電話に出たのは紗栄子だった。
情け無い事に俺は震えて声が出ない。
「もしもし、どちらさまですか?」
「中治です」
「はあ?」
「中治ですが、、、実は、、、」又後の言葉が出ない。
「ご用件を早く言っていただけませんか!」
「特にないんです。すみません。間違えました」
言うなり俺はガチャンと受話器を置いた。
フラフラと電話ボックスを出て空を仰ぐ。
さっきと変わらぬ綺麗な夕空だ。
俺の恋なんて全然関係なく世の中は動いてる。
当たり前な事だった。
俺は失恋したんだ。二度とこんな事しない。
惨めな気持ちに打ちのめされて俺は帰宅した。
顔色を変えてドカドカ廊下を歩く俺を見て、映画鑑賞が終わった両親はびっくりして顔を見合わせた。
部屋に入った俺は布団を被って寝込んだ。
「正、正、どうしたの?具合悪いの?」
「、、、、」
「あなたの好きなコーンスープ作ったの。これだったらお腹に優しいよ」
覆い被さるような母の声が布団の上からする。
「違うんです」
「どうしたの?」
「どうもしない。うるさい!黙っててくれ!」
「、、、」
「、、、(早く俺の部屋から出てってくれ)」
と、いつもは俺の言う通りにする母は突然はっきりした声で喋り出した。
「正、今迄ずっと話さなかったけど、あなたの本当のお父さんね」
「精神病だったんだろう。知ってるよ」
「正確に言うと違う」
「じゃあ、あんたとあいつが出来ちゃったから怒って当てつけに死んだのかよ!?」
俺は布団を跳ね除けて母を睨んだ。
次の瞬間、ピシャとほっぺたを叩かれた。
イテッ!
「痛いじゃないか」
『当たり前です。思い切り打ったからね。
腹が立ったのよ。自分の親がそんな事する人間だと本気で思ってるの?そんな嘘を誰が言ったのよ」
「だって、、」
「いい。誰が言っても良いけどね。お父さんとお母さんは、死んだお父さんが本当に好きだったの。
お葬式が終わった後もお父さんの話二人でして、死後の手続きも一緒にしてる内に仲良くなった。これからの生活のめどがつかないし、お腹の子堕ろそうかと悩んでる私に向かって二人の子として育てていこうって、そこから話が決まったの」
「嘘だあ」
「又そんな目をする」
母はほっぺたを真っ赤にして怒っていた。表情が子供っぽくなってまるで女学生のようだった。
どう見ても嘘をついてる顔つきでない。
じゃあ二人で共謀した殺人、、なんて妄想だったか。
なんだかガックリして俺は首を垂れた。
「正、戦争精神病って知ってる?」
「何それ?」
「戦争って過酷な出来事よね。特に戦ってる兵隊は敵を殺す必要があります。殺さなければ殺される、砂漠みたいな大陸で昼夜砲撃の鳴る中で惨たらしい殺し合いをする内に神経が冒される病気を『戦争精神病』って言うんだって」
「お父さんはそれに罹って、終戦の前に帰国出来たのです。でも以前とは人が違ったように暗い表情の人になっちゃった。婚約者の私と一緒になってしばらく過ぎて、それでもちょっと変だった。寝てる時ひどくうなされて私その度に抱きしめてあげてた。
だけど、ある晩眠ってる私をおいて家を抜け出して、飛び込み自殺してしまったのです」
俺は馬鹿みたいに呆然としていた。
たった今失恋した筈なのに、何もかも嘘のようだった。
「なあんだ。そんな事か」などと言う話ではない。もっともっと重い話ではある。
少なくとも自分に狂気の血が流れているとは言い難いし、今の両親が結婚したのは決して汚らしい動機からじゃない。
それが分かったら心がストンと収まって、楽になった。
「お母さん、本当の事を知るって良い事だね!」
「何よ突然?」
母は驚いた顔で俺を見つめた。
「俺、他人を幸せにする為の真実を追及したいよ!」
又呆れた顔をする。
「そのために受験頑張る!なんだかヤケに腹が減ったよ。早くご飯食べたいけど」
「勝手な子だよ」
呆れ顔の母はおばさんの顔に戻って台所に行く。
ミカン色した茶の間でいつもの団欒が始まる。それが俺には初めて知る幸せな時間に思えた。