読書の森

甦り その6



佳奈は舐める様に見つめる教授に些か辟易としている。
自分の命の恩人である事は分かる。
しかし、元気な佳奈が「退院したい」とどんな頼んでも首を縦に振らない。

どうやら佳奈を引き受ける親族がいない様なのだ。


「記憶が戻って脳が正常化したら」というが、外の世界に出れば自然に記憶が戻るのではないか。
要するに自分は実験動物だ。
村上はモルモットの様に自分を可愛がっているのだと思う。

佳奈は美しい眉を潜め、携帯ラジオを手に取った。
スマホとやらは弄れない。
其れこそやり方が分からないのだ。
佳奈が長い眠りについた1995年、パソコンさえ全国には普及してなかった。

携帯ラジオは1980年代の歌謡曲特集だった。
何かひどく懐かしい気がした。
イヤホンを耳に佳奈は目を閉じた。



軽やかなメロディが耳を通り過ぎた時、佳奈の頭の中を風が通った。
まるで嘘の様に過去の記憶がありありと浮かんだ。

「さよならは別れの言葉じゃなくて
再び会うための遠い約束」
この歌は『セーラー服と機関銃』だ。
この声、薬師丸ひろ子だ。

佳奈は自分が吉田佳奈で実年齢が45歳である事を今更の様に自覚した。

そう、この歌の流行った1982年彼女は家族も親戚も航空機事故で亡くしたのである。
羽田沖に墜落したというニュースを聞いた時、悪夢を見てるのだと思った。

隣家の村上のおばさんはなにくれとなく世話を焼いてくれた。
一人っ子同士の翔と佳奈は兄妹の様に育ったのだ。

その年の大晦日、隣の村上家で紅白歌合戦を見た。

桜田淳子が『セーラー服と機関銃』を歌った。
無口な翔はポツンと言った。

「僕、薬師丸ひろ子の方が好きだ。吉田君に似てるから」
言った途端に失敗したと言う顔をした。

そうだ。教授の照れた顔にその時の翔の面影がある。
村上教授がまだ子どもの頃、佳奈の家と隣同士だったのだ。
佳奈は何とも言いようのない気持ちになった。

佳奈にとって、20年という大切な時が消え去ってしまった。
ただ、お化けの様な若さだけが残ったと思える。

読んでいただき心から感謝いたします。

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