韓国ドラマは哲学的感性を刺激する

韓国ドラマ、IT・デジタルなこと、AIなどと並んで哲学に関する事柄や、よろずこの世界の出来事について書き綴ります

政治家のレベル~その国の国民のレベルを表すのか?

2020-12-31 18:13:37 | エッセイ
 いよいよ年の瀬になりましたが、前回の記事でも扱った通り今年は政治についてものすごく考えさせられた年でした。

 政治家の悪口や批判ばかりしても、読んでいる人たちももうお腹いっぱいな気持ちかもかもしれませんね。

 今年最後に一言だけ言わせてもらえば、政治家の人間的レベルは本当にその国の国民のレベルを表しているのでしょうか?私には、必ずしもそうとは思えません。日本についても、自己弁護ではなく第三者的な立場からみてもそれは正しいと思います。

 今の最悪な政治状況を生み出してしまった元凶は、私たちがあまりにも政治に無関心だったり、政治についてしっかりと発言、注文をしなかったからだと思います。

 日々の暮らしで精いっぱいでとてもそんな余裕がないという方も多いでしょうし、私自身そうでした。最近は少し気持ちに余裕が出来たためにこんな風に発言できるようになりました。

 政治家が自分たちの地位や利権を守ることに汲々とするならば、私たちは選挙の一票で意思表示をするしかありません。今まで、棄権ばかりしていた人たちがしっかりと投票で自分の意思を示すようになれば、今の政治状況は様変わりするに違いありません。

 来年は衆院選挙の年ですので、選挙での一票の力を再度確認できるといいですね。私も、気を引き締めて新しい年に臨みたいと思っています。

政治腐敗について~なぜこんなことになってしまったのか?

2020-12-30 15:32:39 | エッセイ
 ネット上の記事をいろいろみるにつけ、今年のコロナウイルス流行の中であぶりだされた政治の問題を取り上げる記事が目立つような気がします。

 端的にいえば、なぜここまで政治が腐敗してしまったかです。政府は自分たちの支持者や自身の利権につながることがらには景気よく予算をつけて国庫からの支出をいとわない半面、本当に困っている、困窮者の方をまったくむかず、自助、自己責任という言葉でそれらの人々を助けることもせずに放置している。

 いったい、こんな血も涙もない世の中になぜなってしまったのか?私自身も反省すべきは、政治に対して関心を持ってこなかったことが一番の問題だと思っています。

 もちろん、日々の仕事、暮らしが忙しく政治的なことがらに関心を持ったり、時間を割くことが難しいということも理解できますが、それではいけなかったということです。

 政治に対する無関心がこんな事態を招いてしまった原因のひとつなのです。生活困窮者を人生の負け組、敗残者などと呼びそれがいかにも自己責任でそうなってしまったかのような風潮がここ20年くらいで当たり前になってしまったような気がします。

 しかし、人はいろいろな事情を抱えて生きています。また、それぞれの人の持てる能力も千差万別です。そんな状況の中でそれぞれの人が一生懸命に生きた結果がうまくいかなかったからと言って、それを100%その人の自己責任だから自分で何とかしろというのはあまりにも酷な話であり、それでは何のためにこの国の社会制度が存在するのかということになってしまいます。

 私がまだ若い頃までは、社会的な弱者に対する思いやりが社会の中にたくさん感じられた気がします。いつのころからか、何でもかんでも自己責任なのだから助けてやるもんか、自分でなんとかしろ!ということになってしまったのでしょうか。

 冒頭にも述べましたが、政治家は自分の利権や後援者のためなら「兆」の単位の予算をすぐさまつけるのに(GoToキャンペーンに1兆円の追加!!!)、数十億、数百億単位の社会的弱者に対する支出を削ろうとする、本当に誰の側をみて仕事をしているのか理解できません。

 たしかにここで私がいくら文句を垂れようとこの声が為政者に届くとは思えませんが、でもせめて自分の気持ちをこういう形で表現しないと本当にやりきれなくなります。

 まだまだコロナウイルスとの付き合いは続きます。こんなストレスだらけの社会情勢の中、人間らしく生きていきたい、ただそれだけのことを望むのは贅沢なことなのでしょうか?

 来年が少しでもいい年になるように心から祈りながら、年を越せればと思います。

AIの馬鹿~何でもかんでもAI言うな!!!

2020-12-28 16:43:50 | エッセイ
 昨今、AIという言葉がやたらと目に入ります。AIはもちろん、Artificial Intelligence の略ですが、単なるコンピュータ処理のことを何でもかんでもAIと呼びたがる傾向が見て取れます。

 たしかに、機械学習という技術がAIの分野に取り入れられて、AI技術はその裾野と実用性を格段に広げました。

 具体的に言えば、機械学習以前は人間の知的動作あるいは作業をあくまでプログラミング(アルゴリズム)で表現することがAIと言われる分野でしたが、機械学習の概念を取り入れたことによって、それまでのコンピュータでは実用的なレベルで実現できなかった機能が簡単に実現できた時から、AIという言葉の濫用が始まったように思います。

 確かに機械学習という技術は人間の知的な作業の一部分をコンピュータ上で実行することを可能にしましたが、一つ大きな欠点があります。

 機械学習で得られる結果が、どうしてそうなったかを知ることができないからです。機械学習のアルゴリズム(あるいはソフトウエア)に膨大な量のデータを入力してやり、その出力から人間が期待する解答がどれであるかを教え込むと、だんだんと機械学習の精度があがって人間が望むような正しい答えを導き出せるようになるのですが、なぜ、その答えになったかが人間からみてわからないのです。

 入力のデータと出力のデータ(答)を確認することができても、そうなるに至った経緯や理由が示されないといったほうがわかりやすいかもしれません。

 いつでも正確な答えがでればそれでいいじゃないかと思われるかもしれませんが、なぜそうなったかがわからないのでは、適応できない分野だってあるはずです。

 今はたまたまうまくいっているかもしれないけど、ちょっとでも動作条件が変わってしまうと全然違う答えが出てくる可能性もあるわけです。

 入力から出力が得られる過程を論理的に説明できないというのでは、これは本当にAIと呼んでいいのかという疑問もわいてきます。

 まあ、人間のヤマ勘なんていうものもありますから、機械学習はコンピュータのヤマ勘で9割方は正しいですよ、なんて言われると少し愛着がわいてきたりするのかもしれませんね。

 そういうわけで、今のAIをとりまく状況が少しでもわかっていただけたのではないでしょうか。ある日突然AIが人間の知能を超える技術的特異点(シンギュラリティ)がやってくるなどという言説を一時期いやというほど聞かされましたが、そんなものは今のままではやってこないのです。

 なんだか自分でも何がいいたいのかわからなくなってきましたが、言いたいことはただ一つ、タイトルの通りです。ただのコンピュータ処理をAIと呼ぶな!ということです。

 昔、コンピュータの普及期に何かしらの間違いがあると「コンピュータが間違えました」という言い訳の言葉が笑い話として使われましたが、どんな時代になっても間違えるのは人間であって、コンピュータではありません。

 そんなことを考えながら、新しいコンピュータ技術について思いを巡らせるのは、私の大きな喜びであり、楽しみです。おそらく、生涯をかけたところで答えなんてでるはずもないですが、自分でできることからこつこつとやっていこうと思っています。

 皆さんも、自分でできることから初めてみませんか?

正確に帰ってくるブーメラン~人の振り見て我が振り直せ!

2020-12-27 17:11:56 | エッセイ
 先日、「韓国の月城原発区域の地下水、放射性物質汚染…トリチウムが基準値の18倍」というネットの記事をみました。

 これって、まさに正確に帰ってくるブーメランではありませんか!さんざん、東京オリンピックを福島原発事故をだしにしておとしめておいて、自国の原発がこんな有様では放射能汚染に関しては、彼らに何か発言する権利すらないでしょう。

 福島原発事故に関わる汚染処理水、つまりきちんと処理された汚染水をことさら環境を破壊する元凶のように表現して、プロパガンダとして使用していましたが、何のことはない自国の原発から福島の放射能値をはるかに上回る処理水を海に垂れ流していたわけです(環境基準には合致していますが…)。

 これもまさに、「自分はいいが他人は許されない」の代表的な事例でこんなことを続けているとそのうちどの国からも信用されなくなり、相手もしてもらえなくなると思っていましたがまさにその通りになっています。

 ダブルスタンダード、二枚舌を使うと必ず他者からの信用を失います。私たちも、韓国を他山の石としてこれからも気を引き締めて生活して行こうではありませんか。

自国語で高等教育が受けられる幸せ~高等・抽象概念の重要さ

2020-12-26 17:57:21 | エッセイ
 「最後の授業」という小説があります。小学校の時に授業で取り上げられたという記憶があるのですが、日本では比較的知られているのではないでしょうか。

 普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に負けたため、フランスのアルザス地方がプロイセンに割譲されることになり、フランス語を教えることが禁止になりドイツ語しか教えてはいけないことになったというのが、このお話の主題です。

 子供の頃はこのお話でいわれていることが抽象的にしか理解できなかったのですが、大人になってから自国語を禁止され、外国語を強制されることのつらさや苦しみが理解できるようになりました。

 翻って現代でも、中国が少数民族に対して中国語教育をその意志に反して強制するという、上記の物語と同じことが行われています。

 また、お隣韓国では反日活動の一環で日本語使用の禁止、はたまた韓国語の中の日本語由来の言葉まで使用禁止にするという動きがあります。

 しかし、そんなことが本当にできると思っているのでしょうか。高等教育で使われる西洋文明由来の抽象概念を表現する言葉は、明治の日本人が心血を注いで作り上げていったものです。

 その出来が素晴らしかったからこそ、漢字の本家中国にも逆輸入されて根付いていますし、韓国の人たちも日本の統治による日本語教育でそのことに触れ、独立後も韓国語の中に自然と取り入れられ使われているという経緯があります。

 私たちは大学以上の高等教育を母国語である日本語で受けることができることを当たり前のように思っていますが、それも明治時代の先人の努力があったからこそなのです。日本語で、西洋文明の抽象概念を表現できるようにしてもらったことは、いくら感謝してもしきれません。

 現在でも、高等教育を自国語で受けられない人たちが数え切れないくらいいます。その人たちの言語の中に現代文明で使用される抽象概念を表現する語がないからです。私は、この事実を学生時代に知って大きなショックを受けたものでした。

 それなのに、お隣の国では先人たちの素晴らしい遺産を捨て去ろうと叫ぶ者がいます。まあ、ここ数十年間で漢字を使用することをやめて、ハングル中心で生活できてきたのでそんなことを簡単に言うのでしょう。

 しかし、それがあまりにも浅はかなことなのは、私がここで述べたことからすぐに理解できるでしょう。現在の韓国語から日本由来の言葉を取り去ってしまったら、高等教育を受けられないどころか日常会話さえままならなくなり、社会はパニックになることでしょう。

 私には、何かを発話しようとするたびに使用禁止用語が出てきそうになり、その場で絶句する人たちの姿が目に浮かびます。

 日常生活で漢字を使うことをやめたしまったことは今更悔いてもすぐに元に戻すことはできませんが、日本語に対する無理解からくる無茶な行動をこれ以上扇動したり広げたりしないでもらいたいものです。

 自国語を使用するという、最も民族のアイデンティティを示すであろう行動の首根っこを日本に押さえられているのが悔しいのかもしれませんが、だからといってそんなものやめてしまえというのはあまりにも乱暴な議論なのです。

 韓国の人たちがこの件に関して冷静かつ賢明な判断をくだすことを心から願っています。


アホ過ぎるソウルの反日条例~人間どうすればこんなに愚かになれるのか…

2020-12-25 17:26:29 | エッセイ
 ソウルの市議会で、日本語の使用制限等などの反日行為をもりこんだとんでもない条例案が可決されたそうです。

 また、国レベルでも学校と法曹界での日本式単語を廃止する法案を政権与党が中心となって議論しているそうです。

 しかし、そんなことが可能なのでしょうか?まず、市条例として制定し、そこから国レベルに広げていこうという思惑があるようですが、そもそもソウル市の中だけで日本語由来の言葉を禁止するなどできるのでしょうか?

 結局、選択的反日ということでこの言葉はダメ、こっちは代わりの言葉がないのでOKなどという中途半端な結果に終わるのは目に見えています。

 それを国レベルで、しかも学校教育を日本語の影響を免れてできると本気で思っているのでしょうか?

 うどんや、おでんなどという言葉の言いかえが存在するからと言って、教育で必要な高等概念を表現する言葉を、朝鮮由来、あるいは中国由来の言葉だけですんなり表せるとも思えません。

 そんなことをすれば、学校の先生たちがどれだけ困ってしまうのか、想像もできないのでしょうね。言葉なんて簡単に置き換えられると単純に思い込んでいる議員たちの頭の悪さも、ここに極まれり!というのが、わたしの率直な感想です。

 どうしてこんなレベルの低い人たちが政治家になってしまうのか。最低限の知性も教養もない救いようのない人物たちに振り回されるのは、ごくこくまっとうな一般市民なのです。

 日本でも似たようなことがありますが、こんな人たちが政治家になるのではなく、こんな人たちしか政治家になれないとするなら、それは社会制度や仕組みが間違っています。

 しかし、それを正すのは政治家の仕事なのですから、この議論はもはやどん詰まりにいきついてしまいますね。

 この閉塞的な状況をいかにして打破するか。それが、今の私たちに求められていることなのかもしれません。

 こんなアホな条例や法律案がこれ以上広まらないように祈ろうではありませんか。

コロナ感染者が減らない!~どうすれば自分の問題となるのか…

2020-12-24 17:18:12 | エッセイ
 本日、「東京で新たに888人感染確認 過去最多 重症者は73人」というネット上での見出しをみて、国民みんなの気持ちから緊張感がなくなり根拠のない安心や思い込みで行動している姿が浮き彫りになったと感じました。

 この場でも政治家らの会食を取り上げ、そのダブルスタンダードが国民に与える影響を憂えましたが、まさにその結果が今日の最大感染者数更新です。

 このままいくと、この年末に次のようなことが起こると予想されます。つまり、大多数の医療機関が年末年始の休みに入り、わずかに開いている病院、医院にコロナの疑いのある患者が運び込まれ、下手をするとクラスターを引き起こし、その本来の機能を完全に奪われてしまうかもしれないということです。

 そして、コロナ以外の病気やけがをした人たちがすべて、医療の現場から締め出されてしまう恐れがあります。インフルエンザで適切な医療処置を受けられず、あるいは平時ならごく簡単な外科手術で治癒する盲腸炎で死者が出てしまうなどという、考えたくもない事態が発生するかもしれません。

 なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。政治家の不適切な振る舞いが一種のモラルハザードを引き起こしていると考えられます。政府のコロナウイルスへの対策が、国民に対するお願いベースで成立しているのに、その国民一人一人のモラルに従った行動を停止させてしまうようなメッセージを、時の宰相自ら送り付けたわけですから当然の結果だと思います。

 この問題を解決するのは簡単です。国民一人一人がコロナウイルス対策を自分の中で一番大切な問題だと思うようになることです。とにかく、各人の中で為すべきことの中での優先順位を一つでもあげてもらうことが大切です。

 若者を悪者に仕立て上げるつもりはありませんが、感染したが無症状な若者が動き回ることでウイルスが拡散していることは、今まで得られた科学的知見から明らかですから、まずは若者に何とか自分たちの振舞が招く結果を真剣に考えてもらいたいと思います。

 そして、年長者には、もはやいうまでもありませんが若者の手本となるような行動や発言をしてもらうことです。

 ここに挙げた方策とまるで逆のことが行われているので、感染者の削減ができないのです。

 政治家には国民一人一人に寄り添う心を思い出してもらい、若者には自分の家族、特におじいちゃんやおばあちゃんに感染してもらいたくないという気持ちを持ってほしいものです。

 この世界で起こることは、一人一人の行動の結果です。それを忘れずにコロナに煩わされないような日常生活を取り戻したいものですね。

医療従事者の受難~看護師は現代版の医女?!

2020-12-23 18:06:03 | エッセイ
 連日のようにコロナ禍における医療従事者に対する心無い差別についての報道を目にします。

 これは、本当にあるまじき行為であり、耳にするたびにつくづく情けなくなります。このような心無い言葉を発する人の大部分が、コロナに対する無知や無理解からくるものとはいえ、もう少し彼らに対して思いやりをもって接することはできないのでしょうか。

 このことに関して、ふと脳裏をよぎったことがあります。それは、韓国時代劇に出てくる医女です。医女はまさに現代版看護師あるいは医師を補助する役割の医療従事者です。

 この医女が、その役割とは裏腹にコロナ禍における看護師さんたちのように不遇な扱いを受けていたことが、ドラマの中で描かれています。

 単に人として見下されることがあるばかりか、あろうことか妓生(キーセン)扱いされて酒宴のお酌に駆り出されることさえあったという信じられない事実があります。

 ドラマの中では、もちろんそのような医女に対する扱いは不当であるという現代の視点でストーリーが進んでいくのですが、献身的に患者の世話をする職業の人たちが報われないのはもしかしたら時代に関係なく普遍的なことなのかもしれません。

 今よりも比べようもないくらい衛生状態の悪い数百年も前、患者の血液や膿まみれになっても献身的に世話をしたり、患者の治療に使われた布や患者の衣服を洗濯する医女は、上流階級の両班(ヤンバン)のお嬢さんがなるものではなく、中級あるいは下級の(ぬひ)の階級の女性の仕事でした。

 日本から見れば遠い朝鮮時代の出来事ですが、コロナ禍における看護師さんたちとその境遇が重なるのは果たして偶然の一致でしょうか?

 もしも、われわれの心の中にこのような職業に就く人たちを見下すような心性があるとすれば、それは大いに改めなければならない問題です。

 献身的に働いてくれている、看護師や医師の皆さんに心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

独裁者登場の予感~渦中にいてわからないこと

2020-12-22 17:29:28 | エッセイ
 昨今の日本の政治状況にはがっかりさせられることばかりですが、どうすれば改善できるのか、正解のない問題として私たちに問われています。

 お隣の国々を眺めてみれば、中国では習近平氏の独裁の度合いがますます強くなり、少数民族の弾圧や台湾や香港への圧力をますます強めつつあります。

 韓国では、文在寅大統領が北朝鮮との融和政策を強力に推し進めると同時に、国内での反対勢力、邪魔者を取り除く作業を通じて独裁政策を強めています。

 中国については、社会体制が日本とは全く異なるので直接の比較はできませんが、韓国の大統領は民主主義の手続きを経て選ばれているにもかかわらず、大多数の国民の意に反した独裁の道を進みつつあるように見えます。

 同じような例では、あのナチスドイツのヒトラーでさえ、正規の選挙で選ばれて表舞台に登場したことを忘れてはなりません。

 学生時代、歴史を勉強しているときにそんな風にとんでもない独裁者が誕生してしまうことがどうしても腑に落ちませんでしたが、今ではそのことがわかるような気がします。

 どんな出来事でも、それが進みつつあるときにその渦中にいると、自分の周囲で何が起こっているのかを知ることは極めてむずかしいということを、今の政界情勢をみていると改めて気づかされます。

 翻って今の日本に、ヒトラーのような人物が出現したら熱狂的に迎えられ独裁の道を進んでいってしまうことはあるのでしょうか?

 失望感、閉塞感で満ち満ちている状況において、それを一気に打ち破り明るい未来を示してくれるというのは大変魅力的ではあります。しかし、そのことにとらわれすぎて本当に何が起きているかわからなくなってしまうのは、実に危険なことだと思います。

 それを防ぐ方法はただ一つ、物事の判断の基準を自分の身の回りのものに置くのではなく、もっと人間にとって普遍的なことがらに置くしかありません。

 では、それが具体的に何かということは、各人が自分で考えて求めなければならないのです。簡単に手に入るもの、何の批判を経ることなく自分の中に入り込んできたものこそ、必ず一度は疑ってかからなければならないのです。

 哲学はお勉強することではありません。上記のような事柄について、自分の頭で考え抜くことが真に哲学するということなのです。

 今年の年末年始の休暇期間中、外出もなかなかままならないと思いますので、誰かに答えを教えてもらうのではなく、自分の頭で正解のない問題を考えてみる経験をしてみてはどうでしょうか。

 そのような意味でのみ、何の役にも立たないと言われる哲学がきっと役に立ちますよ。

アメリカのクルマ文化の奥深さ~日本車成功の理由

2020-12-21 17:59:27 | エッセイ
 今日は普段みているYoutubeの動画チャンネルの話題です。「スティーブ的視点」という日本在住経験がある、日本語が達者なスティーブが出演するチャンネルです。

 扱う話題はいろいろですが、メインになっているのはクルマに関するものです。最近では、30年前の日産シーマやトヨタクラウンを日本から輸入して、アメリカのフリーウエイを走らせるなどという、車に興味がある人間なら思わずニヤリとするような動画がありました。

 現在進んでいるのは、古い日本車を改造してレストア(生まれ変わらせる)するプロジェクトです。彼の息子あっちゃんと二人で、アメリカのクルマ仲間の助けを借りながらボロボロだった日本の名車を、自分たち好みに生まれ変わらせる作業は本当に興味深いものです。

 その中でも特に、俗に86(ハチロク)と呼ばれるAE86、トヨタスプリンタートレノをレストアする場面を眺めていて、ああ、日本車がこんなにアメリカで成功した理由はここにあるんだなと心から思ったのです。

 できるだけたくさんの中古パーツを手に入れ、エンジンを標準のスペックから性能アップさせる作業を、スティーブの息子のあっちゃんがいろいろな苦労をしながらも、目を輝かせながら進めている様子をみて、こんなにも日本車に夢中になる人たちが全米にいるなんて、めちゃくちゃクルマ愛好家の層が厚いことを、改めて気づくことになったのです。

 アメリカのクルマ文化の厚みは、概念としては理解していたつもりでしたが、ボロボロの日本車を嬉々としてうれしそうにいじり回す彼らの姿をみていると、そのことを心から理解することができました。

 また、もう一つの理由があります。それは、週末に行われるクルマ愛好家のミーティングです。ミーティングといっても、別に堅苦しいものではなく皆で集まってお互いの愛車をみせあうだけのものですが、ここに登場する車の種類をみていると、いかに日本車がアメリカで愛されているかが、如実にわかります。

 フェラーリやランボルギーニというスーパーカーに交じって、トヨタスープラ、日産フェアレディZ、シルビア、スバル、ホンダビート!までもが登場します。

 ホンダビートは30年も前の軽自動車ですが、軽のくせにスーパーカーと同じミッドシップマウントエンジンを積んでいるというほとんど遊びで作られたとしか思えない車ですが、この小さな車を、背の高いアメリカ人が嬉々として乗り回している姿をみて、この光景からも日本車がアメリカで成功した理由がよくわかりました。

 韓国のヒュンダイ(キア)はアメリカ市場でレクサスの対抗車種やスポーツタイプの車種を販売しているようですが、単に新車が何台売れたかという指標だけではアメリカのユーザにどれだけ支持されているかはわからないと思います。

 日本のほうがアメリカに本格的に進出したのが随分早かったとはいえ、ここで見たような形でアメリカのユーザの心をつかまないと、アメリカでのビジネスが成功したとは言えないのではないでしょうか。

 アメリカでは先にみたように、日本の軽自動車(軽トラまで!)が人気でK(ケイ)カーと呼ばれています。韓国車がアメリカでKカーと呼ばれる日は来るのでしょうか?