
以上、当時の風景を思い描きながら 「加賀市の歴史」を読み進めると、なんとなくイメージができそうです。 というわけで、本書の記載をそのまま載せると 『農耕が定着した弥生時代の末期から、村々の中では、有力な家とそううでないものとの差が次第に著しくなり始めた。 この有力な家を首長と仰ぐ村は、大聖寺川や動橋川の川筋、海岸沿いの台地に多く出現し、やがてそれぞれの地でまとまりをみせはじめた。 そして江沼地方の全体がほぼ一つのまとまったクニになるのは、おおよそ五世紀後半、すなわち狐山古墳の出現した頃と考えられる。 これが後に江渟国(えぬのくに)と呼ばれるクニの出現であり、その首長すなわち王の家が、のちに江沼臣(えぬまおみ)とよばれた豪族である。 江沼氏は、加賀の他の豪族たちとは違って、中央の大和王権との接触には積極的であったらしい。6世紀後半に越の海岸に到着した高句麗の使節の扱いについて、加賀の大族道君(みちのきみ)の意に反して、大和王権の側に立つ行動をしていることなどが、このことを示している。 大和王権の地方に対する支配権の拡大は、地方のクニの王を国造(くにみやつこ)に任命する、いわゆる国造制の施行によった。 江渟国の国造に任命されたのは江沼氏で、大和朝廷での身分を表すカバネとして臣(おみ)が許された。 以後の江沼氏は、江沼臣が公称となるのである。 ただ、江沼臣の国造任命の時期はわからない。 『国造本紀』 には反正朝(5世紀前半)とあるが、信用できない。先の欽明朝のことから推して、おそらく6世紀後半ではなかろうか。 江沼臣は、律令国家の出現する7世紀後半まで国造の地位を世襲した。』 というわけです。
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では、その後の江沼臣はどうなったかというと、京都に移って下級役人になったとのことです。 代って江沼を支配したのは中央から派遣された下級貴族や武士たちで、大江氏とか狩野氏とか富樫氏とかが来て、そのまま土着し権力を世襲していったようです。 それが平安、鎌倉、室町時代と続くわけです。
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そして、1471年、大聖寺川の河口近く、吉崎に蓮如が道場を開くと、浄土真宗による一向一揆が支配する地になり、信長に滅ぼされるまで100年のあいだ「百姓が持ちたる国」と呼ばれるようになるのです。
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そして、そして、賤ヶ岳の戦いにて、柴田勝家が羽柴秀吉に敗れたあと、大聖寺には尾張出身の 溝口秀勝が赴任します。 それも15年経って転封(将軍が、大名の所領を別の場所に移すこと) されると、こんどは小早川秀秋(丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主・秀吉の甥)が、一時的に 北ノ庄(福井)に移され、江沼郡も支配するのですが、大聖寺には、1598年に 小早川秀秋の家臣、山口玄蕃頭宗永(やまぐちげんばのかみ)が着任し、秀秋の転封が取り消されたあとも、加賀にとどまることになるのです。
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ところが、それもつかの間、2年後に関が原の戦いが起きると、豊臣方についた山口玄蕃は前田利長に滅ぼされてしまいます。以後、金沢から派遣された城代に支配され、1639年になって前田利治が江戸時代の大聖寺蕃初代藩主となるわけです。
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というように見ていくと、地元生抜きの支配者というのは、7世紀頃までの江沼臣が最後で、以来千数百年間というものは、外から来た国司、武士に支配されたり、宗教の指導の下に集まったりというわけで、なんとなく威勢が削がれる気がしないでもない加賀の国ですね。

チハカ山古墳の横の池