日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2018-07-18 11:45:04 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(468)     5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その108)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

30,神の国の永遠の浄福と永遠の安息について。

しかし、さまざまの段階の功績に応じて与えられる名誉や栄光がどのようなものであるか、だれが想像をしたり、ましてや言い表わしたりで

きだろうか。これが存在するであろうことには疑いはない。かの祝福された国においてはこのような恵み、すなわち(前回はここまで) 天使

が大天使をうらやむことはないように、下の者が上の者をうらやむことはないであろう。だれも自分が受けたもの以上になろうとは願わな

いが、しかも〔多くの〕賜物を受けている者と密接に結びつけられている。からだにおいても、指は目になろうとは望まない。全身の四肢が

それぞれ調和ある働きを保ちつつ、一つに結ばれているからである。それゆえに、たとえだれかが他の人よりもわずかしか受けていない

としても、彼は分に安んじ、それ以上を望まないという賜物を受けている。

 さらにまた、彼らがもはや罪のうちにあって喜ぶことがないからと言っても、自由意思を失ったことにはならない。意志は罪のうちにあって

喜ぶことから解放され、決して罪を犯すことがないことを喜びとするに至るときの方が、いっそう自由である。人間が初めて正しく造られた

ときに与えられていた意志の自由は、罪を犯さないことのできる(posse non peccare)能力であった。しかし、彼は罪を犯すこともできた

のである。ところが、終極的な賜物は、(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-07-18 11:43:15 | 大分中央ウィークリー

創世記25章27節である。「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」という。二人はその当時の2つの働きの方法を取って別々の生活分野を担当し、相対立する生活様式を身につける結果となった。一方は狩猟生活であり、他方は農耕生活を担当することになったと報じている。食べ物の物々交換はあるが、狩猟は肉食を主とし、農耕は菜食を主とする。

 

さらに言えば、狩猟は動物の行動に合わせて生活するので単立的であり、狩猟の地域を共に持つわけにはいかない。行動的であり、しかし安定性がない。農耕は、一定の地域に生活の場を持ち、共同的であり、安定性がある。すなわち季節の変化と作物の成長を見て、それに合わせて働く方法を取らねばならない。隣が種をまけばこちらも種をまくという具合である。従って両者は性格の違った社会を形成する。

 

28節である。「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、「リベカはヤコブを愛した。」という。この双子はそれぞれに成長したのは良い。しかし問題は思わぬところに発生した。両親がそれぞれわが子を愛するのに両者を同じように愛するのではなかった。聖書は、「イサクはエサウを」といい、「リベカはヤコブを」といいだした。これはその両親が、それぞれの一方を「愛した」という。

 

ただ愛する理由に父のヤコブは、食べ物の好物からくる愛情をエサウに注ぐのに対して、母のリベカは、愛する理由を表していない。「リベカはヤコブを愛した。」と。人格的な愛し方のようである。これでは、物語の先の、読者には良くても悪くても、一抹の「不安」を抱かせることになる。神の配剤の不平等であるとしか言いようがない。


牧 会 通 信

2018-07-18 11:28:00 | 大分中央ウィークリー

 (原光訳、2000年、沖積舎)

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 二十歌(その11)

◯カサロディの無思慮がピナモンテの欺瞞にかからぬ内は、そこの住民はもつと数多かつた(ピナモンテに領主の地位を奪われる。

1270年頃)。

 だからいつかそなたが、わたしの生地の起源が違った風に話されるのを聞いても、嘘に真実が欺かれぬやうに忠告しておく。」

 わたしは言つた、「あなたの説は実に明確で、心から信頼できるので、今後外の説はわたしには消えた炭でせう。前回はここまで)

◯しかしいま進んでくるものたちの中に、注目に値するものが見られるか言って下さい、さうしたものだけがわたしには気がかりなので。」

 すると答へた、「頬から髯(ひげ)を褐色の肩に垂らしているあの男は、ギリシァに男がゐなくなつて、

 辛うじて揺り籠にだけ残つてゐたとき、鳥占い師としてアウリデ(占い師)港で、カルカスとともに回顧すべき時を教えたものだ。(つづく)

◯本日7月15日、日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「信頼のうた」である。聖書本文は、詩編37編23~40節である。その23節

にいう。「主は人の一歩一歩を定め 御旨(みむね)にかなう道を備えて下さる。」という。主なる神の御心は深く、わたしたちにはとらえよう

がない。わたしたちにはほんのわずかなこともとらえることができない。

人は主の御旨を悟ったような気になるが、神の事実はそんなものではない。その神信仰をどうして持つのか、それにわたしたち人間が、

関与できない。まったく神の側の働きあるのみ。「人の一歩一歩を定め」るのは、神御自身である。それゆえ信頼あるのみ。

写真は、2015年11月4日に逝去された故平野智恵子姉が、大分大学医学部で御献体の御用を果たして2年8カ月後の7月13日(金)

大分火葬場に戻ってこられ、そのご遺体をご遺族とともに火葬に付しました。


プロテスタントとカトリック 

2018-06-12 22:59:45 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(462)   5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その102)

  最終篇に入ります。

 

第二十二編神の国永遠の浄福

29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 そのとき、これらの目は神を見奉るであろう。なぜなら、これらは霊的な非身体的な本体をも知覚できるような、高次の知性をそのうちに持つからである。もっとも、このことを聖書の事例や本文から証明することは困難で、事実上不可能である。

30,神の国の永遠の浄福と永遠の安息について。

いかなる悪によっても汚されず、すべての善が明らかにされ、すべてにおいてすべてである神を讃美する暇のある前回はここまで)浄福は、いかに大いなるものであろうか。いかなる怠情も存せず、労苦の要の全く存しないようなところで、他の何物にわたしたちの心を用いることがあろうか、わたしにはわからない。わたしは次の聖詩編に見習うことにしよう。「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。」(詩編八四・四)。

いまはやむを得ない役に立っている肉体のすべての四肢・器官も、その必要がなくなり、完全で確実・永遠的な浄福だけが残るそのときには、ただ神をほめたたえる用を果たすだけのことになるであろう。わたしが上に述べたように、今はその機能を秘かに果たしている身体的調和の各部分も、そのときには(つづく)(「神の国」出村彰訳)

 


聖書研究

2018-06-12 22:57:31 | 大分中央ウィークリー

創世記25章21節である。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」という。「妻に子供ができなかったので、」という。今日でもよくある話である。妻をめとるということは、現代でも、先ずは子孫を残すことが第一の目的ある、といえば、必ずしもそうでないというしっかりとした反論が返ってきそうである。 

しかしこのアブラハムの古代はもとより現代もまた後継者を残すのが大事な目的の一つであるのは同じである。子を産めないと分るときは、夫婦も一族全体も深刻な悩みになる。今日はいろいろ医学的に原因が突き止められ、子が生まれるように可能な限り原因を突き止めるが、しかし現代をも含めて、このイサクの時代にも、祈るという方策を欠かすことができない。神が可能な限りの改善をもたらすからである。 

22節である。「ところが胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、『これでは、わたしはどうなるのでしょう。』と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。」といいます。不妊の女であったはずのリベカが身ごもった。主なる神が、イサクの熱心な祈りに応えられて受胎した。乙女マリアの時の言葉がここにも関係があります。「神にできないことは何一つない」(ルカ1・37)と。 

身ごもったら身ごもったで、普通胎内の子供が母体に大きな刺激を与えるほど動くのは、胎内にいる子供にとっては当然のことで、成長のしるしでもあるといわねばならない。この時のように双子は大きな動きを感じ取るのは、人に普通。しかし大事なのは神の御心である。夫のイサクは後継者が必要であり、熱心な祈りをささげた。しかしリベカは胎内の普通のことながら、