五、「教会とわたしたち」(342)
4.近代の教会の夜明け
―宗教改革とその後―
信仰の救いが「信仰のみ、恩寵のみ」によってもたらされるとするなら、いわゆるカトリックが主張していた貧者や病人に対する配慮や救護という善行によって救いの確かさを求める道は残されなくなったのであった。これはまた、カルヴァンのジュネーヴでも同じような社会現象となったもので、教会が取り仕切っていた結婚制度がある。カトリック教会の七つの秘蹟のうちの一つが結婚であった。結婚は世俗の問題として教会から切り離して、たとえば近親結婚の禁止など、教会が判断することではなく民事法の元に置いて裁判所の判断にゆだねるものとなった。(ここまで前回)
チューリヒでは一五二四年の12月修道院がすべてが廃止され、翌年3月13日イースターの聖餐式をもってカトリックのミサはその町から姿を消した。しかしその形はカトリックの組織がそのままで、その内容がプロテスタントに裏返っただけであった。スイスは13の地域共同体〈邦〉であるから、全体の連邦から見れば、一部の地域で分裂が始まったにすぎない。しかし実際は1528年にベルンが、孤立無援に近いチューリヒの大きな支えとなり、1529年にバーゼルが加わり急速に仲間を加えたが、その反対の傾向も強くなった。山岳地の諸邦ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ツーク、ルツェルンの5邦は「カトリック・キリスト教連合』を結成して対抗してきた。その緊張が、実力行使、すなわち軍事対決にまで高まったのが1529年6月の~(つづく)