五、「教会とわたしたち」(346)
4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後― チューリヒのツウィングリ
後に不幸な結果になるのであるが、ツウィングリのその状況判断は当たっていた。こうなると、ツウィングリにはカール5世大帝を要するハプスブルク家との対決が抜き差しならない重荷となってきた。ルター派との同盟の必要から、1529年10月、聖餐論の一致を求めて当時の有数の学者たちが集まりドイツ・フランクフルトから60キロ北の小さな都市マールブルクで三日間にわたって神学討論を展開した。史上名高いマールブルック会談である。しかし、軍事同盟は不成立に(ここまで前回)おわった。
それがツウィングリにとって第一の会談の目的であったが果たせなかった。しかし会談そのものは、まったく失敗であったのではない。聖餐論の話し合いにおいて大きな成果を挙げたといわねばならない。カトリックの、化体説や犠牲奉献をあらわす「ミサ」を完全に否定すること、そしてパンとブドウ酒の両品目の陪餐の肯定において、ルター派との両教会の一致を確証することができた。カトリックが非難するような、聖餐は単なる主観的想起のきっかけではなく、正に神からの恵みの賜物であり、それはイエス・キリストの真のからだと血との霊的受領であって、それにより弱い心が信仰へと導かれることに一致することが出来た。しかし、ただ一つ不一致が出た。パンとぶどう酒におけるキリストの臨在の様式の違いという従来からの肝心要の問題が残った。「マールブルク条項」の十五項目からなる最後の一つで、不一致となった会談として有名(つづく)