五、「教会とわたしたち」(333)
4.近代の教会の夜明け―宗教改革とその後―
ツヴィングリ自身よりも弟子たちの方が、どちらかといえば熱心であり、彼らにとっては、この期節の断食の破棄こそが、かねてからの彼らの(師ツヴィングリが解いてやまない)福音の自由の実現そのものであった。(ここまで前回)
チューリヒ市を統治していたコンスタンツ司教区のカトリック教会法廷が介入しただけではなく、その傘下の直接統治団体のチューリヒ参事会までがその違反者に懲罰を科したとき、ツヴィングリは「食物の選択と自由」と題して、その書を公にし、福音派の立場を弁証し、聖書が明白に命じていること以外はそのすべてが禁じられたものしてはならないとし、断食は命じられていないので守る必要はないとした。万一、旧約と新約に差異がある場合は、たとえば、旧約では断食が命じられているが、その場合は、新約が優先すべきであると強く主張した。このときの翌年(1523年)1月に市参事会当局が両者による第一チュリッヒ討論会を招集した。この討論に先立ってツヴィングリはその提題として「六十七箇条」を執筆し公開した。半年後、ツヴィングリは、さらにこの問題について、「六十七箇条」の詳細な解説を公にした。この問題について長期の討論の始まりとなったのであるが、福音主義が始めて公的な立場を獲得したという意味では、一つの時期を画したことに意味があるといわねばならない。(つづく)