五、「教会とわたしたち」(381)5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その20)
12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。
彼らが人を殺す場合には、殺される肉体に(前回はここまで)感覚が残っている以上、「なにか」をすることができることは確かである。しかしその後は、彼らは何
もすることができない。ひとたび殺されれば、肉体には感覚が残っていないからである。
確かに多くのキリスト信者の死体が、土によって被われないでしまった。しかしそれだからと言って、彼らは大地からも天からも切り離されていない。全地はそ
の創造されたものを再び立ち上がらせる術を知っておられる方の臨在で満ちているではないか。詩編にこう記されている。「彼らはあなたのしもべのしかばねを
空の鳥に与えてえさとし、あなたの聖徒の肉を地の獣に与え、その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした」(詩篇七九・二
~三)。しかし、この語はこのようなことをなした人々の残虐さについて語っているのであって、それを葬った人々の不幸について述べているのではない。このよう
な事は人の眼にはひどく恐ろしく見えるが、神の聖徒の死はそのみ前において尊いのである(詩篇一一六・一五)。
この事実から、われわれの現在の習慣、すなわち葬儀の世話・墳墓の選択・荘厳な儀式といったものが生じて来る。しかしこれらすべては、死者の助けという
よりは、生者への慰めの~ (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)