日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-09-27 23:03:53 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(331)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

しかし歴史神学的な意味では福音の先陣争いは無用であり、神の歴史的働きといわねばならない。どのような意味でも人間的功績を読み込んではならない。1516年秋からのアインシーデルン滞在は二年と数ヶ月という彼にとって比較的短い期間となった。1518年暮れも押し詰まってスイスの都市共和国を形成していたチューリヒに転任となる。時に34歳であった。ツヴィングリにとって更に新しい転機となった。このときから、彼は、宗教改革のツヴィングリといえばチューリヒ、チューリヒといえばツヴィングリといわれる関係になったのはこのときからであった。彼によってスイス改革派(ここまで前回)の名称は、このチュウリヒ都市共和国と分かれがたいものとなる。

年が明けて、1519年1月2日の聖日、ツヴィングリはチューリヒの中心にそびえる大聖堂の教会の説教壇に立った。それ以来12年間の彼の活動は、基本的には説教者としての務めであった。この説教壇から語られる聖書の講解説教および時宜に適った主題説教が、チューリヒに、スイスに、そして他の諸国に改革派教会の、ルター派とはまた違った、伝統を生み出すことになる。ルターの場合もそうであったが、宗教改革は何よりも先ず〝説教運動〟であったといえる。いつの時代もいえることであるが時代の曲がり角では、聖書の説教が勝負どころとなる。これは今日も同じである。(つづく)


聖書研究

2015-09-27 22:56:18 | 大分中央ウィークリー

創世記21章27節である。「アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、二人は契約を結んだ。」という。両者の間には、井戸水の取得の問題で何か穏やかではない問題が発生しいたという意味を含んでいる。ここはその問題をも含めて将来に向って平和を築こうとしたのは被害者のアブラハムからであった。友好関係を造り出そうとする一つの決断が、ここのアブラハムの方からの契約締結の行為となったといえる。それにはそれ相応のアビメレクの誠意を読み取ったからに違いない。 

その結果「二人は契約を結んだ。」のであった。これは、人間的にいっても堅い同盟関係の契約といえる。アブメレクが26節の「知りませんでした」という発言は井戸の返還を伴ったのであろう。その誠意に応えるアブラハムであった。28節である。「アブラハムは更に、羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にしたので、」という。この七匹の羊が、27節の「羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、」といわれている。その羊の中に含まれていたのかどうかがここの問題である。なぜなら契約のしるしとして、契約以外の目的をもったもの、すなわち、「井戸を掘ったことの証拠」(30節)含めるのは、契約の儀式の重要さから考えにくい。しかし、実際はその群れの中に含めていたのであった。 

ここの言葉遣いからは、「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」といわれているところは、アブラハムの手で「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」という意味であって、契約にはアブラハムが自ら7匹の羊を分けることによって井戸のアブラハムに帰属の確認であったといえる。


牧 会 通 信

2015-09-27 22:28:39 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その5)

◯第一の圏は暴力者ばかりを詰め込んでゐるが、暴力は三つの対象に加へられるから、三つの環に分けられてゐる。

神と、自身と、隣人に対して、暴加は加へられる、つまりそれらと、それらの持物に対して、やがてあからさまな供述で分るやうに。 

殺戮と痛ましい障害は隣人に対して行はれ、破壊と放火と強奪はその持物に対してなされる、(ここまで前回)

◯だから人殺しと悪意をもつて人を傷つけるもの、破壊者と強奪者はことごとく、別別の群れをなして第一の環で苦しめられてゐる。

  人間は自身と自身の持物に対して暴力を加へることがある、だから第二の環では、自ら命を絶つたもの、

財産を博奕(ばくち)でするもの、快活であるべきところで哭き(大声をあげて泣き)悲しむものが、無益に後悔せねばならぬ。(つづく)

 

◯2015年9月27日は、今年の第三十九主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「信仰と実践」という主題である。聖書はローマ12章1~8節、その8節、「勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」という。ここにいう信仰に基づくその実践は、教会を建てるための具体的働きのこと。このほかに、6節から「預言」、「奉仕」、「教え」加え、教会の中での合計七つの働きを列挙している。信仰理解の弱さに悩む人を助け、信仰の一致をもたらすのを目的として働く人をどの時代の教会も必要としている。「預言」は礼拝説教、「教え」は諸集会の学び「指導」は生活指導であろう。 

◯写真は23日、大阪での全国信徒大会の閉会礼拝前、子供の集いのステージと会場全体で詩編歌133・1の大合唱。


夕礼拝  2015年9月20日(日) 

2015-09-21 03:01:12 | 大分中央ウィークリー

説 教 「心に光を与える神」            牧師 南茂 昭夫

創世記        1章    1~   5節   

マタイによる福音書  6章    1~   8節

賛美歌 219、 353、 475、 28

     (1)          

本日は、マタイによる福音書6章1節の本文からです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」といいます。わたしたちの信仰の生活について具体的に教えるものの代表的なものは主イエスの山上の説教であります。5章1節から7章全体29節で終わるのであります。マタイでは、このような説教が五つあります。その第一は、この山上の説教です。

第二は、十二人の弟子を選び派遣されるときの弟子たちへの説教。第三は一三章一節からで、大勢の群衆と話された説教、第四は、また弟子たちに話され一八章一~三五節です。第五はオリーブ山で、最後に弟子たちに話され、二四章三節から二五章四六節など、でした。それぞれに工夫されて具体的な例(たとえ)を挙げてのお話がされています。それらは皆、「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という、定型文で結ばれています。

(2)

山上の説教のこの部分は、宗教的な「施しと祈り」であります。いわゆる信仰の実践としての基本となる二つであります。信仰者の外への働きかけと、祈りによる自分自身の信仰の訓練でありました。まず、「人の前で善行を」といいます。ここは口語訳聖書では、「自分の義を」となっています。ギリシャ語本文は「義(ディカイオスネー)」であります。この「義」という言葉は、神ご自身の属性の一つで、「愛」と並んで大事なものです。

属性であるから単なる人間が隣人とのバランスで考えたり思いついたりする道徳的正義以上のものであります。聖なる神より来るところの絶対的命令であり、これに背く者は神の怒りと審判とが伴う。旧約においては神の義は律法を通して示され、新約においては、キリストが律法を満たしてくださるのであるから、キリストの福音を信ずる信仰によってあらわされます。

従って主イエスは「人の(目の)前で行わないように」といいます。しかし公的な場所での信仰の実践を抑制しておられるのではありません。人に見てもらって偽善者となるのを注意しておられるのです。とくに施しの時です。

2節です。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と言っておられます。

(3)

ここの「施し」という原語はギリシャ語では、エレモスネーですが、ヘブライ語では「義」の「ツェデク」です。ヘブライ語では「義」すなわち、それは「施し」なのです。イエスは、ここで特別に注意するためにヘブライ語的感覚でここでは1節の「善行(「義」)」と並べて使っておられるようです。この時代のユダヤでは、毎日各町村で多くの人が貧民のために、また二人の会堂役員が家ごとに「施し」を集めて歩き、安息日には会堂でそれを集計するという方法をとっていたようです(Ⅰコリ16・2)。ここではファリサイ派の人たちのことを偽善者と言っています。神に対して信仰の敬虔を装っていたようです。

3節「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。といいます。秘密にしておきなさいという意味です。信仰の敬虔を保持するためでした。そのことは要するに神にのみ知らせるためでありました。従って4節で「父が、あなたに報いてくださる」というのでありました。

さてもう一つ大事な信仰の生活があります。「祈り」でありました。これはキリスト者はその生活に欠いてはならないものであります。祈りは実践でしか学べないといったのは、19世紀スコットランドの神学者P・Tフォーサイスでありました。それゆえ信仰の生活では必須の生活手段でありました。彼はこう書いている。「祈りについて書くことは困難で恐ろしくさえあり、聖なる契約の箱に触れるような恐怖を感じさせる。祈りの原理よりもその実践により多く労苦したものでなければ、祈りについて、資格はない。」(「祈りの精神」ヨルダン社、斉藤剛毅訳、13頁」といい切っています。

ところが、イエスの警告は8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」といっておられます。つまりくどくど多くを祈る必要がないといっておられるのであります。ですから、そのために必要なのは、わたしたちの心の中の暗闇を照らすところの、すべてを御存じである父なる神の光であります。何をどのように祈るのか、真っ暗闇の心の中を神の光であられるイエスによって照らしていただかねばなりません。

(4)

旧約聖書は創世記1章1~5節です。その3節。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」といわれています。創世記のここでは4節の朝晩の光でありますが、実際には今日に至る永遠の「光」の創造でありますから、新約聖書のイエスがお出でになった現在は、イエスのいう心の暗闇を照らす「光」です。信仰こそ唯一の神の業(ヨハ6・29)でありますから、イエスが信じられるなら、すべてが満たされて、くどくど祈る必要がありません。

救い主イエスの父なる神よ。大人も子供も、イエスが真の光として御出でになり、信じて十字架と復活のイエスを信じていつも短く祈らせてください。原発が再び稼働されました。当事者に原発の危険をより強く認識させてください。若者にはキリストの十字架の贖いの恵みを、病人には癒しを、高齢者には復活の命を、神学生には勉学の力を、主の御名よって、アーメン


故人記念特別伝道礼拝2015年9月20日 (司会 長老 辛島 光一)

2015-09-21 02:48:27 | 今週の朝礼拝と夕礼拝礼拝説教全文

説 教「神の業がこの人に現れるため」      牧師 南茂 昭夫

イザヤ書        42章     5~  9節

ヨハネによる福音書    9章     1~ 12節

賛美歌(交36) 7、351、463、28  

(1)                    

まず、ヨハネの福音書9章1節です。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目に見えない人を見かけられた。」といいます。いわゆる、ヨハネのここ9章は盲人に関する話であり、更に言えはイエスによる盲人開眼の神の御業についてのお話であります。世にいう聖書の奇跡物語の一つであります。

これは8章の終りと連続しています。「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」といいますから、「身を隠して」といいますのは神殿の中で神殿当局のユダヤ人に追い出されるようにして神殿を後にされました。そして、ここの始まりでは、「さて、イエスは通りすがりに」となっているのであります。その道の神殿からさほど遠くない「通りすがり」と思われます。

(2)

そしてここに問題が発生しました。「生まれつき目の見えない人を見かけられた。」といいます。この人は、道端で物乞いしていた盲人です。こういうケースはこの町ではよく見かけるものですから、おそらく通り過ぎようとされたのかもしれません。ところが弟子たちの方が、よい宗教的教材と考えたのでしょう。この盲人を教材にしてイエスに対して、問題を投げかけたのでありました。目の不自由な盲人には実に失礼な話でありました。

2節、「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ(「先生」という意味、筆者)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』~」といいます。まあ、失礼な話ですが、思えば気の毒なことに、この人は生まれつきの盲人でありました。聖書の世界の紀元1世紀の頃のユダヤの社会での普通の考え方ようであります。しかしこの考えは人間の社会では今日といえども通用する話であります。仏教用語では、〝前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされる〟ことをいいます。いわゆる因果応報の思想であります。二千年の時間的隔たりがありません。

さて、この時のイエスのお答えが続きますが、単に新しいお言葉で済まされないお言葉です。それは当時のユダヤの社会はもとよりこの世の世界中の時代を越えた真理であります。天地創造の神、全知万能の神の実在を現わすだけではなく、人がここで全能の神に出遭うお言葉であります。

(3)

反対にいえば、今の有限の世界のわたしたちの全存在がその根底から問われる、また支えられるお言葉であります。3節です。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」と。イエスは、その男の盲目についての質問に対する単なる返答では済まされないのです。つまり人間の苦難全体と人間にそれがどうかかわっているかについての、先の因果応報の思想との、人間の因果性との関係の探求という点で、非常に重要な発言が吐露されるということであります。「だれの罪か」との質問をお受けになって、そのお答えは「神の業がこの人に現れるためである。」というのでした。安閑として人間本位に暮らしている人間には厳しいお答えです。極めて重要であります。

このイエスはきっぱりと、「だれの罪か」に対して、鉄槌をかざして拒否されているといえます。「ああ、そうか、ええことをおっしゃる」ではないのです。わたしたちに水やガス、電気が必要です。大事です。けれどもそれで支えられて歩いていますし、そうでありましょう。しかしそれは考えが甘すぎる。人間にはもっと大事なものがあると、厳しくおっしゃるのです。

何がどのようになったのか。5~9節をお読みします。「『わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いしていたのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』という者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」と。イエスの「世の光」が一端人間の目に入ると、他の人は見違えて人の意見が分かれるほど人が変わったと伝えています。つまり、これが新しい信仰の人間の姿です。

どういうことかといいますと、難しいかもしれませんが、このようにして泥を塗って人の目に光を入れるということは、この世の目に見えることだけがすべてであると考える人間の世界に対して、眼科の医師が白内障の目を明るくするのをも含めて、神が、この世の有限性の指導権を克服した、ということをわたしたちに、大分市の世界に厳しく主イエスが泥で説教するのです。

(4)

旧約聖書は、第ニイザヤです。前538年バビロンの捕囚からのユダヤ人の解放を告げるイザヤです。いわく、42章6節。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形作り、あなたを立てた。」と。この信仰が人間に必要、必須条件です。

われらの救い主イエスの父なる神よ。子供たちも大人も、あなたがその最善をもってわたしたちと契約を結んであたらしい世界の創造に、日常生活で神の創造の業に与らせ、あなたのお言葉に聞いて従う信仰者としてください。原発の再稼働を増やさないように。若者には創造の神を信じ従わせ、病人に癒し、高齢者に復活の命、神学生に学びを、主の御名によって。アーメン