創世記21章4節である。「神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。」という。「神が命じられたとおり」というのは、17章10節にいう約束のことである。「わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」と。さらに12節には「いつの時代でも、~生まれてから八日目に」という。
この「いつの時代でも、」というのは、これはイサクとその子孫のイスラエルが契約の民として聖別されたことをいうものであるが、それにとどまらず、神学的な意味が含まれる。八日目も儀式も除去され後々のキリストの十字架の贖罪と合わされる「洗礼」に通じるというか、洗礼を含むのである。
5節である。「息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。」という。かつて、アブラハムに「男の子を与えよう」神が告げられたとき、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」(17:17)。
また、サラも同じように「笑った」。今度は三人の旅人が立ち寄ったときに、彼らの一人がアブラハムにいった。「~あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」と。それを盗み聞きいた彼の妻サラが「ひそかに笑った」と。そのはずで、サラは「主人も年老いている」という(18:12)。それをここでは「百歳であった」のに「息子イサクが生まれた」とある。イスラエルの民の起源が、神の介入によってのみ可能であったとの主張である。