五、「教会とわたしたち」(390) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その29)
⒗.多くの聖別された処女たちが捕囚の間に暴行を蒙った。彼女らが進んで同意したのでない限り、これは彼女らの魂の罪を意味するであろうか。
我々の敵対者は捕囚の恐怖を大いに誇張し、その証拠として既婚・未婚の婦人たちのみならず、聖別された処女たちまでが襲われたことを列挙することによって、特に重大な非難をキリスト教に加えうると考える。こうした事柄を~ (前回
はここまで)論ずるに当たっては、我々は中庸と道理の両者をともに保持しなければならない。問題になっているのは信仰や宗教、あるいは貞節として知られる徳ですらない。わたしが目指しているのは、外部の者に答えるというよりはわた
し自身の群れに慰めを与えることである。
それゆえに、次のことをまずしっかりと弁え知るべきである。それは、善良な生活を送るに必要な徳というものが宿るのは、ひとのこころの中にであり、また肉体が聖くされるのは聖別された意志の働きによる、ということである。もし意思さ
え毅然としているならば、だれか他の人がどのようなことを肉体に、また肉体によって行おうとも、その人自身が自ら何か罪を犯すことなしには攻撃を逃れられないかぎり、被害者には何の咎もない。しかして、他人の肉体になしうることは乱
暴のみならず、欲情の行いをも含む。後者の範疇に属する行為は、貞節を損なうことがない。貞節は平穏な精神によって~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)