日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-03-30 18:40:35 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(405)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その45)

  29.キリストが敵の暴虐から彼らを救い出してくれなか(前回はここまで)ったと論じ立てる不信者に対し、キリストの僕はどう答えるべきか。

  いと高く真実なる神の家族は、その慰めを与えられている。それは偽ることなく、また移り変わり・過ぎ去るべ

き物事への望みに基づいていない。彼らはできるだけ悔い改めの必要がないようにこの世の生を送り、そこで

永世への練を受けるのである。彼らは地上の財貨を巡礼者のごとく用い、その中に巻き込まれることがない。

彼らは悪事をも自分を試し・向上させるものとして用いる。試みの中にある者に向って侮辱を重ね、ひとたび悪

がその上に降りかかるや「おまえの神はどこにいるの」(詩四二・一〇)と言うような者どもは、彼らが災難の中

にあるときに彼らの神々がどこにいるのか言ってみるが良い。彼らはこれらの災難を避けようとして神々を礼

拝し、あるいは礼拝する方が得策だと主張している。

  キリスト信者はこう答える。「わたしの神はその全能をもって、あらゆるところにおられる。神はどのような場所

にも限定されない。神は知られずして現臨し、動くことなく立ち去られる。神がわたしを逆境に会わせられるの

は、わたしの美点を試すためか、わたしの罪を罰するためである。この世の苦難を信仰をもって堪え忍ぶ報い

として、神はわたしを支えて永遠の報酬へと至らせられる。どうしてわたしはあなたに向かって、(つづく)

(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-03-30 18:37:57 | 大分中央ウィークリー

創世記24章28節である。「娘は走って行き、母の家の者に出来事を告げた。」という。おそらく、自分の自己紹介を兼ねた答が受け入れられて、その返答の代わりに「主人アブラハムの神、」という祈りを聞かされたのであろう。普通の旅人でなく、一族のものであることを、驚きと共に理解したに違いない。従って自分では、この相手に対応できないと悟ったのである。即座に行動した。

 

「娘は走って行き」とあるから、らくだに何度も水を運んだ疲れも見せず、水がめをそこに置いたまま一目散に走ったのであろう。そして、「母の家の者に出来事を告げた。」という。そんなに遠くではなかったのかもしれない。「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました。」という僕の祈りの言葉の感動を、この娘リベカによって「母の家の者に」伝えたようである。

 

29節である。「リベカにはラバンという兄がいたが、ラバンはすぐに町のはずれの泉の傍らにいるその人のところに走った。」という。リベカの行動は早かった。単に行動が早いというよりも、心の驚きと事の重大さを感受する感受性の速さをわれわれは理解すべきであろう。従ってそれを受けた家族の中でも、とくに若いリベカの兄ラバンがその反応を家族のだれよりも早く受け取ったようである。

 

「ラバンはすぐに町のはずれの泉の傍らにいるその人のところに走った。」という。もちろんリベカの身につけていた高価な飾りに気がついたであろうが、リベカの両親ならともかく、この若者には恐らく関係がない。リベカの感動をそのまま受け取って即座の行動を起こしたのであろう。遠路はるばるやってきた親族への礼を失してはならないと彼も一目散に走った。われわれにもその感動を強力に伝えている。


牧 会 通 信

2017-03-30 18:34:51 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)  ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その7)

◯だがわたしは焼き焦がされてしまふので、三人を抱き締めたくてたまらぬ熱望も、恐怖に負けてしまつた。

それから口を切つた、「軽蔑ではなく、ずつと後でしか消え失せぬ苦痛が、あなた方の様子によつてわたしの内に打込まれたのです、

ここにいるわたしの主人の言葉で、走つてくるあなた方の身分の高さが、わたしに察せられるとすぐにです。(前回ここまで)

◯わたしはあなた方の土地のもので、いままでずつとあなた方の働きと尊敬すべき名を、敬愛をこめて口にしかつ聴いてゐたのです。

  わたしはこの苦味を後にし、真実を言ふこの先達の約束した、甘い果実を得に行くのですが、まづここの中心まで下らねばならないのです。」

  「まだ長い間魂がそなたの五体を導き、そなたの名誉が死後にも光り輝くやうに、」と同じ霊が答へた、(つづく)

 

◯本日、3月26日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は、「真(まこと)の羊飼い」というものである。

聖書は、ヨハネによる福音書10章11~16節である。その16節にこういう。「わたしには、この囲いに入ってい

ないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の

羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」といわれる。世界の教会は一つ、ここに公同教会の姿が暗示されてい

る。

◯写真は、3月20日、柳川教会で行われた九州中会の議長・書記選挙は、どういうわけか、議長が二回の

選挙に至っても過半数にならず、上位二者の決選投票の選挙方法についての動議が出て、選挙の結果、再

選された澤正幸議長と、挙手で再選された富樫史朗書記である。難産であったがかえって小倉教会無牧事態

に適切な議長となるよう切に祈る。


プロテスタントとカトリック

2017-03-22 23:55:39 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(404)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その44)

 28.ではなにゆえに、神は敵が貞節な者をこのように取り扱うのを許されたのか。

  わたしは事情も知らずに咎め立てしようとは思わないし、あなたの良心がこれらの問いにどう答えるかもわからない。しかしながら、もしも肯定的に答えねばならない場合には、あなたが人を喜ばせる力があるとして大切に考えていたものを失い、人々の目には見えないものを持ち続けたからと言って驚いてはならない。

  他方、自分の貞節を決して誇ったことがないと信じている(前回はここまで)者の中にでも、敵の肉的暴力によって苦しめられた者があるのは事実である。そのような場合には、もし戦争によって屈辱を蒙らなかったとすれば、傲慢が誇りに発展したかもしれないし、隠れた弱さがあったのかもしれない。そこで「邪悪が彼らの考えを変えることがない」(ソロモンの知恵四・一一)ように、あるものが死によって取り去られたが、他の者の場合は繁栄が貞節さを損ねることのないように、暴力行為を蒙らねばならなかったのである。いずれにしても、彼らの肉体が汚れを蒙らなかったといってからと言って不当に誇っている者も、あるいはもし敵の暴行を免れさえすれば誇り高ぶったかも知れない者も、貞操を失ったのではなく、謙卑を教えられたのである。一方は実際の傲慢をいやされ、他方はいずれ生じたかも知れない傲慢から救われたのである。

   29.キリストが敵の暴虐から彼らを救い出してくれなか~(つづく)  (「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-03-22 23:52:50 | 大分中央ウィークリー

創世記24章27節である。「『主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました。』と祈った。」という。祈りの内容についてであるが、彼の1000キロにも及ぶ旅路の無事であったことはもとより、目的地でリベカに出合ったことをも含めてのこと、それらは「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、」といって感謝している。

 

それは旅路のすべてが、主人の神のご計画の実現の確認である。「主人の一族の家」の「一族」は「関係者・親族(「エヘー」強調複数)」。アブラハムの兄弟ナホルの八人の子を含む一族。ナホルの孫がリベカであった。従って「主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」との言葉には、ご計画の確実性への僕の驚きがある。

 

28節である。「娘は走って行き、母の家の者に出来事を告げた。」という。おそらく、自分の自己紹介を兼ねた答が受け入れられて、その返答の代わりに「主人アブラハムの神、」という祈りを聞かされたのであろう。普通の旅人でなく、一族のものであることを、驚きと共に理解したに違いない。従って自分では、この相手に対応できないと悟ったのである。即座に行動した。

 

「娘は走って行き」とあるから、らくだに何度も水を運んだ疲れも見せず、水がめをそこに置いたまま一目散に走ったのであろう。そして、「母の家の者に出来事を告げた。」という。そんなに遠くではなかったのかもしれない。「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました。」という僕の祈りの言葉の感動を、この娘リベカによって「母の家の者に」伝えられたようである。