五、「教会とわたしたち」(397) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その37)
25.わたしたちは他の罪を犯すことによって、一つの罪を避けようとすべきではない。)
しかし、わたしたちの死すべき肉体の中に巣食う不従順な情欲が、わたしたちの意志ではなくそれ自身の法則に従うとしても、決してそれに同意を与えなかった人の場合は、睡眠中にそのような情欲の動きを経験する人の場合ほどにも咎
め(前回はここまで)られるべきではないであろう。
26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか。
しかしながら、迫害の時代にその貞節が汚されることを免れるため、急流に身を投じた聖女たちがいたと伝えられている。激流は彼女らを押し流し、彼女らは溺死した。彼女らは殉教者としてカトリック教会によって定められた時に尊崇され
ている。わたしは彼女らについて、性急な判断を下そうとは思わない。
信憑するに足る十分な証拠に基づいて、何か心的権威を持つ当局者が教会を説得し、彼女らを記念する祝祭日を設定させるようにしたのかどうか、わたしにはわからない。しかし、もしそうだったとすればどうだろうか。彼らが人間的な過
ちを犯したからではなく、神の命令を聴いたからすなわち誤謬ではなく従順からだったとすれば、どうであろう。サムソンの場合はそうであったとわたしたちは信ぜざるを得な (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)