日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-01-23 21:39:10 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(397)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その37)

25.わたしたちは他の罪を犯すことによって、一つの罪を避けようとすべきではない。)

しかし、わたしたちの死すべき肉体の中に巣食う不従順な情欲が、わたしたちの意志ではなくそれ自身の法則に従うとしても、決してそれに同意を与えなかった人の場合は、睡眠中にそのような情欲の動きを経験する人の場合ほどにも咎

(前回はここまで)られるべきではないであろう。

 

 26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか

  しかしながら、迫害の時代にその貞節が汚されることを免れるため、急流に身を投じた聖女たちがいたと伝えられている。激流は彼女らを押し流し、彼女らは溺死した。彼女らは殉教者としてカトリック教会によって定められた時に尊崇され

ている。わたしは彼女らについて、性急な判断を下そうとは思わない。

  信憑するに足る十分な証拠に基づいて、何か心的権威を持つ当局者が教会を説得し、彼女らを記念する祝祭日を設定させるようにしたのかどうか、わたしにはわからない。しかし、もしそうだったとすればどうだろうか。彼らが人間的な過

ちを犯したからではなく、神の命令を聴いたからすなわち誤謬ではなく従順からだったとすれば、どうであろう。サムソンの場合はそうであったとわたしたちは信ぜざるを得な (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-01-23 21:36:12 | 大分中央ウィークリー

創世記24章19節である。「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷりの飲ませてあげましょう』と言いながら、」という。話は途中であるが彼女の行動の連続の中である。『たっぷりの飲ませてあげましょう』と言いなが

ら、」とは、彼女の独り言である。アブラハムの僕は、水を飲んで一息しながら、ただ聞き手に回って、じっと彼女の行動を見ていたのであろう。

 

これが神の時のあり方であろう。神がどのように行動されるのかを、僕は待っていたに違いない。僕にとっては、らくだにも水が必要なことはわかっていた。しかし要求していない。旅人として必要であったそのらくだの水まで要求するつもりは

なかったといえる。しかしこの若い娘は、何というか、旅のらくだにも、と気がついて、「『たっぷり飲ませてあげましょう』といいながら」いそいそと働きまわるのであった。旅人の主人に伺うまでもなく、自分で決めて行動した。僕は見つめるの

み。

 

20節である。「すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走っていった。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。」という。何頭のらくだであったのか判らないが、徒歩で一千キロ、約1ヶ月に及ぶ旅路であった。少なく

とも4~5頭のらくだを必要とするであろう。らくだへの思いやりの心、その切り替えの早さ、敏捷な行動に驚かない人がいるであろうか。

 

「すべてのらくだに水をくんでやった」という。幾度となく水汲み場とらくだの間を往復したのであろう。労を惜しまない彼女の行動力、腰の軽さにはここを読む読者のすべてに感動を与えないわけにはいかない。彼女は若く、美しいだけではな

かった。その人柄のよさを十分に表現していた。だれよりも僕が感動したであろう。


牧 会 通 信

2017-01-23 21:29:15 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その13)

◯そのやうな予言はわたしの耳には新しくない、だから運命は好きなやうに車輪を回すがいいのです、農夫が鍬を振り回すやうに。」

  そのとき師は右頬の方から後を振向き、わたしを見詰めて、それから言つた、「肝に銘じるものは良い聴き手だ。」

  それでも同じやうにセル・ブルネットと話しつづけて歩き、わたしは訊いた、もつとも名高く、もつとも卓越した仲間は誰か、と。(前回ここまで)

◯すると言つた、「幾人かについて知ればよい、他のものについては話さずにゐる方がいい、言ふべきことがうんとあるのに時間が短いのだから。

要するにみんな偉大で名高い聖職者と文人で、あの世界で同じ一つの罪で戯れたのだと知るがいい。

ブリシアン(6世紀のラテン文法学者)とフランチェスコ・ダ・コルソ(13世紀のフィレンツェの法学者)も、あの惨めな群と一緒だ、さらにあのような白癬(「ハクセン」皮膚病)が見たかつたら、(つづく)

 

◯本日、2017年1月22日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「朝ごとに新しく」という。聖書の箇所は哀歌3章20~27節である。その22~24節、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」、23節「それ

は朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言いわたしは主を待ち望む。」と。よくよく考えていただきたい。世にあって朝ごとに新鮮なものは何か、と。

 

◯写真は、20日牧師館応接室、日立エアコンの取付、同メーカー旧・新交換。

 


プロテスタントとカトリック 

2017-01-17 19:49:34 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(396)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その36)

(25.わたしたちは他の罪を犯すことによって、一つの罪を避けようとすべきではない。)

  自殺が憎むべき行為であり、嫌うべき犯罪であるとすれば―事実その通りなのであるが―いったい愚かにもこう言う者はだれであろうか。「のちになって姦淫の罪を犯すことがないように、さあ人殺しをしようではないか」。もしも不義がかく

もはびこり、わたしたちが罪なきことよりも罪を選ぶことになるとしても、(前回はここまで)未来の不確かな姦淫の方が現在の不確かな殺人よりもましではあるまいか。悔悛の秘蹟によって赦される罪〔姦淫〕を犯す方が、救いに至る悔い改

めの余地のないような行為〔殺人や背教〕よりもまだましではあるまいか。わたしがこう言っているのは、男にせよ女にせよ、他人ではなく自分自身が罪を犯すことを避け、また他人の情欲の動きに屈服することを免れるためになら、自分の

命を無理に断っても差し支えないと考える人々に対してである。神に信頼を置き、堅い望みを神にかけ、その助けを得ようと努めるキリスト者に、どのようなものにせよ、肉の欲望に屈服するような恥ずべきことが断じて起こらないように。しか

し、わたしたちの死すべき肉体の中に巣食う不従順な情欲が、わたしたちの意志ではなくそれ自身の法則に従うとしても、決してそれに同意を与えなかった人の場合は、睡眠中にそのような情欲の動きを経験する人の場合ほどにも咎め(つ

づく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-01-17 19:47:01 | 大分中央ウィークリー

創世記24章18節である。「すると彼女は、『どうぞ、お飲み下さい』と答え、すぐに水がめを下して手に抱え、彼に飲ませた。」という。このようなときの対話では、最初の言葉が最も大事である。そこで親しみのある聖書の口語訳を見ると、「す

ると彼女は、『わが主よ、お飲みください』と言って、」となっている。この「わが主よ、」を翻訳せずに「どうぞ」では、不十分である。

 

「わが主よ、」という呼びかけは、この中東地域では堅苦しい言い方ではない。目上の者への親しみと信頼を現す、やさしい言葉である。それゆえ大役を背負っていた彼に、一種の安心感が湧くと共により慎重になったのかもしれない。何時

どんなタイミングで本音に入っていくのかであった。彼女の次の言葉を待ったのであろう。

 

19節である。「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷりの飲ませてあげましょう』と言いながら、」という。話は途中であるが、彼女の行動の連続の中である。『たっぷりの飲ませてあげましょう』と言いながら、」とは、彼

女の独り言である。アブラハムの僕は、水を飲んで一息しながら、ただ聞き手に回って、じっと彼女の行動を見ていたのであろう。

 

これが神の時のあり方であろう。神がどのようん行動されるのかを、僕は待っていたに違いない。僕にとっては、らくだにも水が必要なことはわかっていた。しかし要求していない。旅人として必要であったそのらくだの水まで要求するつもりは

なかったといえる。しかしこの若い娘は、何というか、旅のらくだにもと、気がついて、「『たっぷり飲ませてあげましょう』といいながら」いそいそと働きまわるのであった。旅人の主人に伺うまでもなく、自分で決めて行動した。僕は見つめるの

み。