五、「教会とわたしたち」(372)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その13)
8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。
~もし神がすべての罪をいま・この世で罰せられるとすれば、最後の審判の日には何も残らないと思われるかも知れない。他方、もし神の力が明らかに介入
して罪を罰しない(前回ここまで)とすれば、摂理といったものすら存しない、と思われるかも知れない。同じように、順境についても、もしも神がそれを求める
者に対し、大いなる寛大さのゆえに時にはこれを与えられることがないとすれば、良き物の配分は神の力のうちにはないと考えてしまうかも知れない。しかし
て、もしも神が求める者にはだれにでも良き物を与えられるとすれば、わたしたちはそのような〔現世の〕富が、神への奉仕の唯一の報いであると思うかも知
れない。そのような奉仕はわたしたちの信仰を深めず、かえってわたしたちを貪婪(どんらん)・強欲な者とするであろう。
このゆえに、善人も悪人も、みな等しく苦しむのである。しかし、等しく苦しむからと言って、善人も悪人も同様であると考えてはならない。同じような苦難を
忍ばねばならない人々の間にも、違いは存在する。たとえ、同じ苦難のむちの下にあるとしても、徳と悪徳とは別のものである。同じ火の中にあっても、金は
明るく輝き、もみがらは煙を立てるだけである。同じように打たれて、わらは砕かれるが、穀物は脱穀(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)