日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-07-27 15:48:18 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(372)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その13)

 8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。

もし神がすべての罪をいま・この世で罰せられるとすれば、最後の審判の日には何も残らないと思われるかも知れない。他方、もし神の力が明らかに介入

して罪を罰しない(前回ここまで)とすれば、摂理といったものすら存しない、と思われるかも知れない。同じように、順境についても、もしも神がそれを求める

者に対し、大いなる寛大さのゆえに時にはこれを与えられることがないとすれば、良き物の配分は神の力のうちにはないと考えてしまうかも知れない。しかし

て、もしも神が求める者にはだれにでも良き物を与えられるとすれば、わたしたちはそのような〔現世の〕富が、神への奉仕の唯一の報いであると思うかも知

れない。そのような奉仕はわたしたちの信仰を深めず、かえってわたしたちを貪婪(どんらん)・強欲な者とするであろう。

  このゆえに、善人も悪人も、みな等しく苦しむのである。しかし、等しく苦しむからと言って、善人も悪人も同様であると考えてはならない。同じような苦難を

忍ばねばならない人々の間にも、違いは存在する。たとえ、同じ苦難のむちの下にあるとしても、徳と悪徳とは別のものである。同じ火の中にあっても、金は

明るく輝き、もみがらは煙を立てるだけである。同じように打たれて、わらは砕かれるが、穀物は脱穀(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-07-27 15:42:48 | 大分中央ウィークリー

創世記23章14節である。「エフロンはアブラハムに答えた。『どうか、~』」という。大勢の前での話し合いであるから、エフロンは側近の者らと打ち合わせした上でのことのようであるが、「アブラハムに答えた。」という。重々しい返答のようである。アブラハムがそのような返答を通して具体的にどのような高額を要求されても動揺しないように、この短い言葉の間にも十分な心の準備をしていたと考えられる。 

とにかく4節で言われているように、アブラハムは全くのよそ者であった。「わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者」にすぎないといっている。「一時滞在する寄留者」としてその土地の一画を取得するのは簡単なことではなかった。その上相手方のエフロンから見て、遊牧民であるアブラハム自身が相当な財産の持ち主であることがよく見えていた。エフロンにとって都合の良い客人であったといえる。 

15節である。「~ご主人、お聞きください。あの土地は銀四百シケルのものです。それがわたしとあなたとの間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください。」という。ここでエフロンは、さも気安く売価を明らかにしているところからも、アブラハムにはよほどの高額であったようである。 

列王記上16章24節、オムリが、「サマリアの山を、銀二キカル(口語訳、2タラント、すなわち6000シケル=68kg)で買い取り、」とある。この「四百シケル」は、単純に換算して、オムリの60分の4であるから、その重さで銀4.5kgになる。また、エレミヤは銀17シケル(194g)で,いくらかの畑を買った(エレ32・9)。アブラハムにはどうでも良い金額ではなかった。サラの葬りの決意の硬さ、高さを読み取りたい。


牧 会 通 信

2016-07-27 15:34:06 | 大分中央ウィークリー

 ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その4)(原 光訳 2000年、沖積舎)

◯この平地は乾いてびつしりした砂で、かつてカトンの足が踏みつけた(前47年)、あの熱砂(アフリカのリビアの砂漠)とそつくりだ。

  おお、神の復讐よ、わたしの眼に示されたものを読むすべてのものに、どんなにおんみは恐れられることだろう!

  まる裸の霊たちの多くの群が見られたが、みんな実に惨めに哭(な)き叫んでゐて、互に異なる掟に服しているやうに見えた。(前回ここまで)

 ◯あるものは仰向きに熱砂に横(よこた)はり。あるものは身体を丸めて蹲(うずくま)り、あるものは絶えず歩きまはつてゐた。

   ぐるぐる歩いてるものはより数が多く、呵責されて横はるものはより少なかったが 、苦悶をぶちまける毒舌はより激しかった。

   熱砂いちめんに、広がった火片がゆつくりと降りしきつてゐた、風のない高山の雪片のやうに。(つづく)

 

◯本日は、2016年7月24日は第三十主日、三位一体後第九主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「平和を求めよ」という主題である。聖書はエレミヤ2

9・1~9、その7節、「隣人に平和を約束していても その心の中では、陥れようとたくらんでいる。」といわれている。いったい平和の心ははどうなっているの

であろうか。エレミヤがバビロンの捕囚の民に送った手紙である。にせ預言者たちの言葉に耳を貸してはならないというもの。人は、大事な二者択一の選択

に迫られる。現代を含めてエレミヤが語るから気をつけられよ。

 

◯写真は、18日梅雨が明けました。梅雨明け10日間、鉢のメダカも楽しそう。7月20日撮影。


プロテスタントとカトリック

2016-07-19 02:24:52 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(371)近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その12)

 8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。

来たるべき世において、義しき者のために良き物を備えることは、神の摂理にかなうことであった。義しからぬ者がそれを享受することはない。不信心な者

のためには悪しき物が備えられる(前回ここまで)が良き者はそれによって苦しむことはないであろう。しかし、この世の禍福は両者に等しく与えられることを、

神の摂理は欲される。それによって人が良き物を余りにも熱望することなく(なぜなら、悪しき者もそれを所有する)、悪しき物を余りにも戦々恐々と避けること

がないためである。なぜなら、良き者もしばしばそれによって苦しめられるからである。

 しかし、もっとも大切なものはわたしたちがいわゆる順境・逆境をどのように用いるか、ということである。良き者はこの世の幸いによって高ぶることもないし、

の世の禍いによって打ち砕かれることもない。しかし、悪しき者はこの種の不幸によって罰せられる。なぜなら、彼はこの世の幸いによって堕落しているから

である。もっとも、神は現世の禍福を分かたれる方法によって、そのみわざの働きを十分明らかに示される。もし神がすべての罪をいま・この世で罰せられる

とすれば、最後の審判の日には何も残らないと思われるかも知れない。他方、もし神の力が明らかに介入して罪を罰しない (つづく)(教団出版「神の国」出村彰

1968


聖書研究

2016-07-19 02:23:22 | 大分中央ウィークリー

創世記23章13節である。「国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ。『わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます。』」という。「どうか、~を払わせてください。」とは、エフロンが使った「差し上げます」(11節「ナーターティ」)の言葉「与える」(「ナーサン」の完了形の)と全く同じ言葉「ナーターティ」である。相手エフロンが使った同じ言葉によって実に敬意を表している。 

そのお値段をいくらご要求されても「お支払いします」という意味である。また同時にこの取引をどうしても成功させて、その地所を獲得したいという気持ちを伝えている。相当な高額を求められていたのであろう。その意味の決意といってよい。 

14節である。「エフロンはアブラハムに答えた。『どうか、~』」という。大勢の前での話し合いであるから、エフロンは側近の者らと打ち合わせした上でのことのようであるが、「アブラハムに答えた。」という。重々しい返答のようである。アブラハムがそのような返答を通して具体的にどのような高額を要求されても動揺しないように、この短い言葉の間にも十分な心の準備をしていたと考えられる。 

とにかく4節で言われているように、アブラハムは全くのよそ者であった。「わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者」にすぎないといっている。「一時滞在する寄留者」としてその土地の一画を取得するのは簡単なことではなかった。その上相手方のエフロンから見て、遊牧民であるアブラハム自身が相当な財産の持ち主であることがよく見えていた。エフロンにとって都合の良い客人であったといえる。