稚内駅の線路の終点です。最北端の線路と書かれていました。
(最北端の線路)
稚内駅前を散策しました。「ようこそ日本のてっぺんへ」と書かれていました。
(稚内駅前を散策)
ロシア語の看板が見られました。
(ロシア語の看板)
稚内駅に戻ると電車が入っていました。
(電車が)
その後、稚内空港へ行き、帰ってきました。
(稚内空港)
(写真撮影:1998.05)
稚内駅の線路の終点です。最北端の線路と書かれていました。
(最北端の線路)
稚内駅前を散策しました。「ようこそ日本のてっぺんへ」と書かれていました。
(稚内駅前を散策)
ロシア語の看板が見られました。
(ロシア語の看板)
稚内駅に戻ると電車が入っていました。
(電車が)
その後、稚内空港へ行き、帰ってきました。
(稚内空港)
(写真撮影:1998.05)
郵便局の車がありました。
(郵便局の車)
稚内の記念切手が売られていました。
(稚内の記念切手)
時間になり、稚内市内へバスで戻りました。
(稚内市内へ)
途中、花が咲いていました。
(花が)
昼食を食べました。
(昼食)
稚内市内を散策しました。まず、JR稚内駅に向かいました。
(稚内駅)
(写真撮影:1998.05)
稚内公園を散策しました。「開基百年記念碑」がまた、見ました。
(「開基百年記念碑」)
色々な花が咲いていました。
(色々な花)
稚内港が見られました。
(稚内港)
上の方を見ると自衛隊のレーダーが見られました。
(自衛隊のレーダー)
「教学之碑」が見られました。
(「教学之碑」)
土産物屋がありました。
(土産物屋)
入るとアイスクリームが売られていました。仲間がラベンダーのアイスクリームを買いました。
(ラベンダーのアイスクリーム)
(写真撮影:1998.05)
「氷雪の門」へ向かいました。
(「氷雪の門」へ)
「氷雪の門」は、正式名称「樺太島民慰霊碑」である雪と氷の中で厳しく生き抜き、そして敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を象徴する高さ2.4mの女性像からなっています。
かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、昭和38年(1963)8月に建立以来、稚内市では毎年8月に、樺太ゆかりの人々による慰霊祭「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」を行っているようです。
(「氷雪の門」)
近くにあるのが、「九人の乙女の碑」です。樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた。交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった9人の女性の名前、そして彼女たちの最後の別れの言葉となった『皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら』の文字が刻まれています。
(「九人の乙女の碑」)
「行幸記念碑」は、開道百年記念式典のご臨席のおりに、ご来市になられた天皇・皇后両陛下は、稚内公園の『九人の乙女の碑』の前で、九人の乙女の悲話をお聞きになり、両陛下は、目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされ、後日、この時のご感銘を詠まれた御製とその時、流された涙とのことでした。
(「行幸記念碑」)
稚内市内が間近に見られました。
(稚内市内)
(写真撮影:1998.05)
稚内公園へ向かっていると花が咲いていました。
(花が)
稚内公園へ上って行くと稚内市内が見えてきました。
(稚内市内)
上って行くと稚内公園の「開基百年記念碑」が見えてきました。
(「開基百年記念碑」)
南極で生き抜いた「太郎・次郎」などの供養祭が行われる「犬の供養塔」がありました。
(「犬の供養塔」)
その先に犬たちの訓練が行われた「訓練記念碑」も見られました。次郎をモデルにしたブロクズ像です。
(「訓練記念碑」)
稚内公園に着き、散策を開始しました。
(稚内公園)
航行しているフェリーが見られました。
(航行しているフェリー)
(写真撮影:1998.05)