滝の水が滝つぼに一度落ちてまたせり上がるするすごい水量の滝を見に行ってきました。
この滝は、兵庫県宍粟市千種町にある「三室の滝」と言います。
滝の水が滝つぼに一度落ちてまたせり上がるするすごい水量の滝を見に行ってきました。
この滝は、兵庫県宍粟市千種町にある「三室の滝」と言います。
この間、石川県の山中温泉に行ってきました。残念ながら数日の差で桜がまだ開花前でした・・・。残念(≧◇≦) でも、見どころいっぱいの温泉郷をたっぷり満喫できました。
山中温泉郷の総湯 菊の湯(おとこ湯)
横から見た所
山中座 菊の湯(おんな湯)
この山中温泉郷は、1300年前、奈良時代の高僧・行基が見つけたのがきっかけで、その総湯の場所は、今でも変わっていません。そして昭和の初め頃まで旅館に内湯が無く浴客はみんな「湯座屋」と呼ばれたこの総湯に入っていました。
のれんをくぐり中に入ると、昔懐かしい脱衣場があります。
脱衣場の扉をよく見ると綺麗な蒔絵が描いています。
ここを後にして温泉街をブラブラしていると、あの片岡鶴太郎の店がありました。
旧加賀藩家老武家書院「無限庵」 に入ることにしました。
鋳物の大きな門扉が入口にあります。
中に入ると、さすが本武家屋敷ですね。造りがすごい。青い壁の廊下です。
御殿の琵琶床の羽目板には、優美な蒔絵が施されています。流水にカワセミをあちらったデザインの蒔絵で、大垣昌訓(1865~1941)の作です。加賀蒔絵の手法を保持した最後の名工です。
シャンデリアもとてもレトロ。高級感が漂います。
ダイジェスト2☆彡
原爆ドームにきました。
戦前の原爆ドーム(広島県立商品陳列所)
原爆ドームは、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は 「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。
設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建で、正面中央部分に5 階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。その頃の広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、川面に映えるモダンな美しさ とあいまって広島名所の一つに数えられていました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約 600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、 天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。 (*ひろたび様参照)
よく、小学校や中学校の旅行や課外授業でここへ来られる方は多いと思いますが、私は初めてきました。
原爆ドーム!
近くで見ると、何か表現出来ない様な迫力がありますね
そして広島平和資料館にも来ました。
「原爆の子」のモデルになった、佐々木禎子さんの像です。折り鶴でも有名ですね。
外国の方もたくさん来ていました。
昔の広島の画像です。(@^^)/~~~
2017年4月26日に広島資料館はリニューアルされて、今まであった蝋人形が2016年4月25日に撤去されることになりました。撤去するかしないかで議論になりましたが、現在では見ることができません。残念!・・・実際に見てみたかったです
そして広島にとって最悪の日 1945年8月6日。
広島1945年8月6日の原爆投下の動画です。
リトルボーイ(英語: Little Boy)とは、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島市に 投下した原子爆弾(ガンバレル型ウラニウム活性実弾 L11)のコードネームである。
ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。リトルボーイ(Mark 1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である
原爆投下により一瞬にして多くの物が破壊されました。
多くの犠牲者が・・・!
:before
原爆の爆発の高熱で溶けて変形したガラス瓶。
:after
爆弾の衝撃により8:15で止まった腕時計。
アメリカは、本当に原爆を落とす必要があったのでしょうか?
見ていたら目頭が熱くなってきました。
ほかにも展示物があって、被爆後のエピソードとかがいくつかあって、書いてある話に目を通すと、泣けてきそうなお話がいっぱいありました。
*最後に自国の安全と平和・領土等は、絶対に守らなくてはいけませんが、それを脅かす敵国がこちらの会話にも説得にも応じず力で攻めてきたら、戦ってでも守り抜かなくてはいけませんね! 国や家族や色んなものを守る為に・・・!
でも、戦争は嫌ですね!起こらない方がいいと思います。
それでは平和な日が続きますように! Have a nice day!
広島旅行のダイジェスト☆彡
大和ミュージアムに行ってきました。
この潜水艦は、大和ミュージアムの2Fデッキから見た、向かいにある海上自衛隊呉史料館です(*^^)v
すごく大きなスクリュー!
戦艦「陸奥」の主砲身とスクリューと主舵等、建物に入る途中に引揚げ品などが展示されています。
ミュージアム内の最初にあるのが、戦艦大和があるフロアーです。
戦艦大和の大きさの1/10の模型です。
船尾からの画像です。
戦艦大和の当時の画像です。(GATAGフリー画像様より参照)
主砲は、船首と船尾の両方に、装備されていました!
主砲が、45度の角度の時には、砲弾が42km先まで飛んで行ったらしいです。(^^)/~
*参考に大和の詳細です。
基本情報 | |
---|---|
建造所 | 日本、呉海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦級 | 大和型戦艦 |
建造費 | 約137,802,000円 (1936年3月 艦政本部試算) |
経歴 | |
計画 | 第三次海軍軍備補充計画 |
起工 | 1937年11月4日 |
進水 | 1940年8月8日 |
就役 | 1941年12月16日 |
除籍 | 1945年8月31日[1] |
最後 | 1945年4月7日沈没 |
要目 | |
排水量 | 64,000トン (基準) 69,000トン (公試) 72,809トン (満載) |
全長 | 263.0m |
水線長 | 256.0m |
幅 | 38.9m |
吃水 | 10.4m |
ボイラー | ロ号艦本式缶12缶 |
主機 | 艦本式タービン4基4軸 |
出力 | 153,553馬力 |
最大速力 | 27.46ノット[2](公試成績) |
航続距離 | 16ノットで7,200海里(13,334km) |
乗員 | 竣工時:2,500名 最終時:3,332名 |
兵装 |
新造時 45口径46cm3連装砲塔:3基 60口径15.5cm3連装砲塔:2基 40口径12.7cm連装高角砲:12基 25mm3連装機銃:52基 25mm単装機銃:6基 13mm連装機銃:2基 |
装甲 | 舷側 410mm 甲板 200mm〜230mm 主砲防盾 650mm 艦橋500mm |
搭載機 | 7機(カタパルト2基) |
大和が実際に砲弾を撃っている画像☆彡
そして大和の最後は1945年4月7日に激戦区の沖縄に向かう途中の坊ノ岬沖海戦(鹿児島県)でアメリカ軍の攻撃を受けて爆破しながら沈んでいったそうです。(>_<) 大和が攻撃を受けた数は、いろいろありまして、日本側は魚雷・爆撃合わせて12~17発に対して、アメリカ側からは、15発~爆撃隊によっては、30~38発ほど撃ち込んだと、結構幅があります。
こちらか「海龍」と呼ばれる、日本の試作型潜水艦です。
映画「男たちの大和」のセットで使われたらしいです。
砲弾の色々
実物の人間魚雷「回天」などが展示されているのが、10分の1大和の奥のフロア。
特攻兵器である人間魚雷。この中に入る人は、どんな気持ちで臨んでいったのかを考えさせられます。 (回天Wikipedia)
*こんな兵器は、決して無い方がいいけれど、本土を敵国に攻め入られ、輸送船や船舶を撃沈され、多くの命が犠牲にされ、本土をも攻撃されるかもわからない時に、家族や他の人々を守る為に、わが身を犠牲にして不本意だったかもしれないけど、敵艦に向かわれた行動には敬意を払います。・・・日本を守る為に有難うございました。
終戦直前の8月にエンジントラブルで琵琶湖に不時着し沈んでいたものを1978年に引き上げて修繕復元したゼロ戦。
レプリカではなく、本物を修復したものです。
このコックピットに乗り込んで、操縦をしてたんですね!
余談ですが、2017年5月に完読した著書「これだけは伝えたい 武士道のこころ」の一説からですが、1979年(昭和54年)12月、韓国の中学校教頭をしていた張志学氏の自宅に、名越氏(大学教授・その他)と日韓教育文化協議会の草開省三氏が招かれました。その時、名越氏は張氏に次のような質問をぶつけました。 「大東亜戦争(太平洋戦争)をどう思われていますか?」
「良い質問ですね。ただ私には少し難しい質問です。」張氏は、前置きをしたうえで語り始めました。
「いつか日本の方々にお知らせをしたいと思っていた話があります。ぜひ聞いて頂きたい。 私は教頭になる前に視学官をしていました。その時韓国では珍しい女性の小学校の校長がおられました。 なかなか優れた方で、男性教師からも尊敬されていましたが、その方は未亡人で子供がいらっしゃりませんでした。 実は校長のご主人は、韓国ではあまり言えないのですが、特殊隊員として沖縄で戦死したのです。ご主人は航空隊に入隊すると、死を覚悟したのか、自分の出身校を訪れ、校庭に桜の木を植えたのです。今ではその桜の木も大きくなっていますが、校長が赴任した小学校は、ご主人が桜を植えた小学校だったそうです。
校長は言っていました。・・・「寂しいときは桜の木の下に立つと心が安まる」と。
私はこの話をぜひ日本人に伝えたいと思い、ソウルにいる日本の新聞社にそれとなく伝えると、朝日新聞の記者が校長のもとへ取材に訪れました。 校長が記者を桜の木の下に案内すると、「日本の軍国主義がご主人を騙して申し訳ないことをしました。」と記者が述べたそうです。(>_<)
いつも温厚で謙虚な校長でしたが、「騙した」という言葉に激怒しました。「私の主人は騙される人ではありません!自分の意志で特攻隊として出撃したのです。騙されたというのは、人間に対する侮辱です。取材はお断りします。」 これが私の大東亜戦争(太平洋戦争)観です。」
張氏は、この話をすると、あとは何も語らなかったそうです。張氏の発言に同席した名越・草開両氏も深い感銘におそわれたという。
先の戦争や特攻隊を後付の知識で評価するのは簡単ですが、そのこと自体を評価するより、当時、かかわった人や周りの人達の気持ちを考える方が大切だと思いますね。(*^^*)
お土産屋さんには、色んなものが置いていました。(^^♪
でたー(#^^#)海軍さんのカレー☆彡
見てて楽しくなりますね ^^) _旦~~
次に海上自衛隊呉資料館に行きました。
こちらは隊員の代わりに機雷に近づき作業をする海中ロボット。
潜水艦の中は、空間が限られているので、省スペースで考えられているのですね!
コンパクトですね。
船外活動用の潜水具ですね。
自衛隊の皆様方、いつもご苦労さまです。
それでは皆様。 Have a nice day!