R. x damascena の生垣で囲われた小さな畑に、毎年植物で作った堆肥を施します。その結果、土壌は豊かで、アシフ ムギーンで灌漑されたダデス渓谷では、毎年2回穀物を栽培することができます。
アシフ ムギーンのダマスクローズ
https://mustseeplaces.eu/here-are-the-roses-morocco-mgoun-valley/ から
最初の作物の大麦は7月上旬までに収穫し、畑を耕して小麦を播き、10月末までに収穫します。農業の多くは依然として手作業で行われています。 畑は木製または鉄の先端のプラウを馬またはラバで引っ張って行います。作物は手で収穫し、乾燥したら、ロバやラバを使って脱穀します。
土壌は粘土と崩積土の深い層で構成されており、地質内容と色で簡単に区別できます。土はpH7.4〜7.8で、わずかにアルカリ性で、沖積層の有機物と窒素の含有量は低いため、施肥料の必要性があります。R. x damascena の繁殖は、古い生垣から取り木または吸枝を取って、これを11月から2月にかけて40cmの深い溝に切り込んだ溝に45 cmずつ離した平行な列状に植えます。薔薇は交互に離して植えられ密集した生垣を作ります。十分な花を生産するのに3年かかりますが、30から40年経った生け垣があるように、薔薇の生産量は年とともに増加するようです。
灌漑をしてカリウム、リン酸塩、窒素の肥料はやりますが、害虫や病気に対するスプレーや化学薬品の使用はしていないようです。
『このレポートでは、紀元約3500年前から始まった文化交流の結果、R. x damascenaに二期咲きの遺伝子が入り、ダマスクローズという園芸上の名前を持った薔薇が、はるか中央アジアのアムダリヤ流域からローマに、BC300年までに入っていた事実を明らかにしています。』と5/13, 8/4, 8/6に唐突に、証拠も上げずに述べてきました。心許ない証拠ではありますが、根拠となる事例を一つあげておきましょう。
ホメロスのイリアスを取り上げました。彼は紀元前 ca.800 の生まれです。
ホメロス( Hómēros、 Homer、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)
BC 500のギリシャのオリジナルからの複製。 グリュプトテーク蔵。
薔薇の花を使った軟膏 Rose unguent ( rosaceum ) は、ホメロスのイリアス※( Illiad XXIII, 186-7 )の中にもその記述( ヘクターにローズオイルを塗る場面 )があります。
このローズオイルはヒポクラテス や ペダニウス ディオスコリデスが『薬物誌』の中に記したローズオイルと同じものと思われます。
※イリアスは古代ギリシャ最古期の英雄叙事詩。伝説の戦争であるトロイア戦争の10年目、その五十日間の部分が描かれています。イリアスはもともと朗誦のための叙事詩です。そこで土井晩翠訳のイリアスを使わせて頂きました。Illiad xxiii, 184-198から。( 人物名等を一部分替えさせていただきました )
土井晩翠訳
しかく罵り叫びしも、狗は屍體に近づかず、
ゼウスの娘アフロディーテ之を守りて夜も日も、
狗を遠ざけ、アムブロシヤ薔薇の香油塗 (まみ) らして、
アキレスにひきながら屍體を裂くを得せしめず。
更にポイブス アポロ、平野の上に黒雲を、
天より彼のため擴げ、屍體の占むるすべての地、
皆蔽ひ去り、太陽の威力の爲めにいち早く、
肢體並びに筋肉の萎縮すること無からしむ。
パトロクロスの火葬堆、しかはあれども善く燃えず、
脚神速のアキレス再び一の策案じ、
即ち堆を立ち離れ、ゼフィルス及びボレアス、
風の二靈に祈祷上げ、すぐれし供物捧ぐべく
誓ひて、金の杯に數多の奠酒(テンシュ)行ひて、
すぐに屍體の燃え上り、薪材迅く燒けん爲、
その來向を乞ひ求む
「薔薇の香油」はRosaceum oil を指すとおもわれます。
lawata et al.(岩田ら)が2000年に、初めて Rosa x damascena の血統(生まれ)を明らかにしたことは既にお話したところです。そして、『DNA 分析を2,000例の薔薇におこなった結果、ダマスクローズの親が R.gallica, R. moschata, R.fedchenkoanaであることを突き止めた。』と唐突に、最初に結論ありきで始まった Rosa x damascena の親さがしでした。( インド、サウジ、モロッコ等ダマスクローズのバックグラウンドがある程度頭の中に入り、予備知識が整いましたので )次からはそのことについてもう少し詳しく述べようと思います。
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