Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ハーブ

2017年09月15日 | レモンバーム

レモンバーム 15

跣足カルメル (  Discalced Carmelites, Barefoot Carmelites ※水がジャン・クロード・ヴェルメイユ( Jean Claude Verdeil )でも作られるようになります。カルメル水の最初の偽造です。修道士達はカルメル水を金持ちに売り、貧者には与えました。安価で販売しているバリユリ通り( Rue de la Barillerie )にある薬局は直ぐにこの商売で高収入を得るようになります。

 

※  跣足カルメル会


        

跣足カルメル会( The Discalced Carmelites or Barefoot Carmelites )はカソリック托鉢修道会( カルメル会の改革派 )。

14世紀以降、他の修道会と同様、刷新運動が勃興し、原点回帰が叫ばれるようになり、1女子修道会のアビラの聖テレサ( Teresia Abulensis、3/28/1515-10/4/1582、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家 )、男子修道会の十字架のヨハネ( Juan de la Cruz、1542-12/14/1591、スペインのカトリック司祭、神秘思想家。)はカルメル会の改革に取り組みました。後に跣足カルメル修会( O.C.D:Ordo Carmelitarum Discultiatorum )が、1593年に元のカルメル会から分離独立します。改革派は、17世紀には、聖ヨゼフ修族と呼ばれるスペイン派と聖エリア修族と呼ばれるイタリア派に別れましたが、1875年、時の教皇福者ピウス9世の命により合併、O.C.D.となり、遵守派はO.Carm.と称するようになります。



つづく。


 

 


ハーブ

2017年09月14日 | レモンバーム

レモンバーム 14

 

※  カルメル会

          

 カルメル会は、正式にはThe Order of the Brothers of the Blessed Virgin Mary of Mount Carmel or Carmelites ( 略してカルメル) と言います。カトリックの修道会。男子カルメル会、女子カルメル会、第三会( 在俗者会 )があります。12世紀に、修道者ブロカルドがパレスティナのカルメル山に修道院を築いたことが起源です。会の名称はこの地名に由来します。ブロカルド修士は、巡礼者あるいは十字軍戦士としてパレスティナに赴き、修道者となったといわれています。1226年に教皇ホノリウスIII世に認可されて正式な修道会として成立しました。13世紀に東方と西方の乖離が進んだため、カルメル会士たちはカルメル山を離れてシチリアとキプロスに修道院を作り、やがて会員の増加に伴い、ヨーロッパ中にカルメル会の修道院を建てます。1259年、ルイⅨ世の援助でパリにカルメル会修道院を設置します。

 カルメルの名は宗教上の名や知識としてではなく、万能水としての名声の方が勝っていました。宮廷内で噂されていた素晴らしい治癒力が評判を呼んだのです。

リシュリュー枢機卿はいつも「そこにある、これが偏頭痛に頼りになる。」と喋っていました。このように,廷臣達の口上に上ったカルメル水は、愛人がもてはやすところとなり、カルメル水を瓶に入れて持ち歩くこととなりました。カルメル水の売上高は急速に伸び、修道会の大きな資金源となったのです。

        

              The Virgin Mary surrounded by saints of Carmel,
          in an icon
written by the Carmelite nuns of Ravenna,
                          in York Carmelite Friary

 

 

つづく。

 

 


ハーブ

2017年09月13日 | レモンバーム

レモンバーム 13

        

ヴォージラール通りのカルメル会, アシル=エトナ・ミシャロン( Achille Etna Michallon1796–1822 )


        

ヴォージラール通りにあるカルメル会の農場、写真;ジャン=ウジェーヌ・アジェ( Jean-Eugène Atget, 2/12/1857-8/4/1927 )はフランスの写真家。

 

カルメル会※の農場は42エーカー以上の広さがあり、そこではレモンバームが栽培されていました。この修道院の薬局はメリッサ水の配合が発案されたのです。カルメル水( Eau des Carmes )が、 パリのカルメル修道院 ( Hôteldes Carmes ) と呼ばれている理由です。修道院ではたくさんのカルメル水を作っていました。そしてその全てのハーブは彼らの農園で作っていると言っていましたが、薬草商であるブルリエ卿(Sieur Bourlier)は、1788年11月22日から1790年5月9日までの間に、カルメル教会に75,116シリングの薬用植物を納めたことを送り状から証明して見せました。

カルメル教会がヴォージラール通りにできると、そこに目立った薬局を作りました。1611年には既に、そこで製造と販売を万能薬カルメル水の名で始めていました。

 

 

つづく。

 

 

 


ハーブ

2017年09月12日 | レモンバーム

レモンバーム 12

その頃、レモングラスウオーター、別名メリッサと呼ばれていました、カーメライトのカーメライト水は、入浴剤、疫病(ペスト)の臭いをカモフラージュするために使われていました。又、リシュリュー枢機卿※が偏頭痛の持薬にしていたこともあって、ルイXIV世の宮廷でメリッサ水は万能薬の名を得たのです。

   

リシュリュー枢機卿(アルマン・ジャン・デュ・プレシー、Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 9/9/1585-12/4/1642、カトリック教会の聖職者, 政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた)  フィリップ・ド・シャンパーニュ( Philippe de Champaigne, 5/26/1602-8/12/1674、バロック期のフランス派の画家)1637年画。 

※ ハプスブルク・スペインはユグノーとの紛争でフランス軍が引き止められている状況を利して、北イタリアのマントヴァ公国継承問題に軍事介入をします。ユグノーが降伏した後に、ルイXIII世とリシュリューは1629年2月、軍を率いてアルプスを越え、北イタリアに出征してスペイン軍を撤退させます。戦争はフランス軍の優勢に進むのですが、戦費調達のため財政難に陥り、母后マリーを始め、貴族や民衆の反発を受けることになります。その翌年、リシュリューの地位は以前のパトロンである母后マリー・ド・メディシス(Marie de Médicis)に脅かされることになります。母后マリーはリシュリューが自分の政治権力を盗んだと思い込み、リシュリューに反対するカトリック篤信派の国璽尚書を管理するミシェル・ド・マリヤックと一緒にリシュリュー失脚を謀ります。母后マリーは息子のルイXIII世に宰相の罷免を要求します。(国王は私的にはリシュリューが好きではなかったようです)ルイXIII世は説得されて、1630年11月11日、母后マリー・ド・メディシスと王弟オルレアン公ガストンはリシュリュー罷免の確約を国王から受けるのですが、リシュリューはこの陰謀に気づくと、翻意するよう国王を説き伏せます。ルイXIII世は土壇場で態度を翻し、リシュリュー支持を表明すします。これ以降、国王のリシュリューに対する支持が揺らぐことはなく、リシュリュー公爵位がつくられ、フランス貴族(Pair de France)の称号が与えられました。一方、陰謀を画策したマリヤックは逮捕され、母后マリー・ド・メディシスはコンピエーニュ(Compiègne)に幽閉され、その後ブリュッセルに亡命したのです。

 

 

つづく。

 

 


ハーブ

2017年09月11日 | レモンバーム

レモンバーム 11

医王立協会がメリッサ水、いわゆるカーメライトの全容をまとめ上げて発表したため、修道院のレシピを薬剤師が自由に使えるようになります。これに対し修道院側はフランス国王の庇護の下で秘密裏に受け継いできたカーメライトウオーターが奪い取られる不条理を、ルイ王に嘆願書をもって訴えました。

カーメライトの製造販売特権、およびカーメライトウオーターの配合は修道院に属する旨の1709年付の書付が残っています。王室からの特許状はこの後1733,1776,1780にも批准されていました。 

( 王立協会がどんな内容を発表したのか、秘伝の内容がどの程度漏れたのか一切明らかでないことが将来に問題を残しました。しかしこれをもって薬剤師が自由に、内容はともかくカーメライトウオーターを作り出すことができるようになります。) 

先に述べた如く、1611年パリに、マリー・ド・メディシス( Marie de Médicis, 4/26/1575-7/3/1642 )の後ろ盾を得て、カルメル修道会は、ヴォージラール通70番地に修道院を建設し、レモンバームをベースとした、薬草14種類、スパイス9種を80度のアルコールに加えた( トニックウオーター )オー・ド・メリッサを製造し、販売を始めたのです。

         

メディシス20歳頃, vers 1595 ピエトロ・ファッケッティ ( Pietro Facchetti , 1539 – 2/27/1613、イタリアの画家 ) 画。

 

 

つづく。

 

 


ハーブ

2017年09月10日 | レモンバーム

レモンバーム 10

カーメライトウオーターを扱っているサイトを開いて、現在のカーメライトウオーターの効能、使用方法等を一応見ておこうと思います。Kerstin's Nature Products For People And Pets. のサイト;https://kerstinsnatureproducts.com/ から全文引用させていただきました。

      

    MELISSENGEIST  ( SPIRIT OF MELISSA, 30 ml/ 14.95 $ ) 

 

内服:

イライラ、緊張感、興奮、不安、寝つきが悪い、頭痛、天候の変化に敏感、器質性心疾患、月経痛、更年期、胃腸病、肥満、食欲不振、風邪およびインフルエンザの症状の軽減に効果があります。

 

局所使用:

神経痛、運動後の筋肉痛、腰痛、歯齦炎、不快感および疲労感

 

この商品は1600年代にカーメライト教会の修道女によってカルメルのメリッサ水( 'Eau de Mélisse de Carmes' )として売られていました。今もドイツではKlosterfrau Melissengeistとして売られています。カーメライトウオーターは不思議な、昔からのハーブをブレンドして作ったウオーターです。

かつて、カーメライトウオーターは神経性頭痛、神経痛の特効薬であるとされていました。カールⅤ世 Karl V, 2/24/1500-9/21/1558, 神聖ローマ帝国のローマ皇帝。ハプスブルク家第3代の皇帝は毎日、カーメライトウオーターを飲んでいたといわれています。母親フアナ ( Joanna , 11/6/1479 – 4/12/1555 , 狂女フアナ:Juana la Loca という異名で知られている ) の形質を受け継ぎ、神経衰弱気味であり、晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていたといいます。

 

カーメライトウオーターを飲用すると、記憶、視力を改善しリュウマチの痛み、発熱、憂鬱と精神疲労を改善する。顔と身体を若返らせ、ヘアーリンス、手とリネンをリンスするのに使われた。又、リラックスするためにお風呂に入れられた。

 

薬容量:1カップに対して20-30滴。

成分:レモンバーム、アンゲリカルート、コリアンダー、ナツメグ、シナモン、クローブ、レモンピール、アルコール、蒸留水。


つづく。

 

 


コブラ

2017年09月03日 | お菓子の歴史

コブラ 

コブラ(又はコブラー)はアメリカのお菓子です。初めてアメリカの料理書に現れるのは1877年刊のTRIED AND APPROVED. BUCKEYE COOKERY AND PRACTICAL HOUSEKEEPING. COMPILED FROM ORIGINAL RECIPES. あたりではないかと思われます。(あたりでと言うのは、私の持っている本で調べた結果、一番古いという意味です)とりあえずこの本に記されたレシピをご紹介しましょう。

コブラと言えば、ピーチコブラだと思っていたのですが、意外にもプラムコブラが取り上げられていました。

   

 上の絵は https://www.bettycrocker.com/recipes/fresh-plum-cobbler/587ce605-008c-4af5-a5d9-eb6ecdd38943 から引用させていただきました。プラムの上にクッキー生地が乗っています。これもコブラです。1877年のレシピはどのような内容でしょうか。

 

プラムコブラ

小麦粉1.1 L、溶かしたラード4 TBS、塩1/2 ts、ベーキングパウダー2 tsをミルク又は水でビスケットを作るように混ぜる。薄く延ばしてプディングディッシュ又は9 x 8 インチの大きさのドリッピングパンに敷き込む。

小麦粉 3 TBSと砂糖2 TBSを混ぜて上に撒く。缶詰のダムソンプラムを1.4 Lのせて砂糖をその上に1カップ振りかける。淵を小麦粉と水を混ぜたもので濡らす。上にクラストをのせて淵をくっつける。十字の長さ1インチの長さの切り口を2カ所開けて1/2時間オーブンで焼く。ピーチ、アップル、そのほか新鮮な又は缶詰の果物を使って作ることができます。--- Miss S. Alice Melching.

 

小麦粉600gに対してラード60gを使った生地はパイ生地ではなくビスケット生地でしょうが、かなりリーンな生地です。このレシピを見れば、どう見てもパイです。コブラ “ cobbler “ を日本の辞書で引くと、”コブラ―パイ、フルーツパイの一種 “ と出てくるのも合点がいきます。

  

 https://civilwartalk.com/threads/the-white-house-cook-book.100422/ から

 

1887刊、ジレット夫人 ( MRS. F. L. GILLETTE. ) のホワイトハウスクックブック厳選レシピ集から、

 

ピーチコブラ

深いディッシュに厚めのリッチクラストを敷き込む。ジューシィな酸味のあるピーチを半分に、または4つに切る。砂糖、スパイスで味を調えて軽く煮る。ディッシュに入れて同じ厚みのあるリッチパフペイストで蓋をする。きつね色になるまで焼く。上のクラストを小さなピースに割って中のフルーツの中と混ぜる。熱くして、または冷たくしてサーブする。ソースがなくてもおいしいが、ブランディ又はワインと一緒に食べるのもよい。ピーチをほかの果物に代えてもよい。カラントをこの方法で作ると最もおいしい。カラントをシーブに通して筋を取る。果肉1パイントに対して砂糖を4オンス、ブレッドクラム2オンス入れて焼く。生クリームを添えてサーブする。ホワイトカラントをレッドカラントの代わりに使うこともできる。

 

"White House" cookbooks は次のサイトで見ることが出来ます。

https://babel.hathitrust.org/cgi/mb?a=listis;c=1508896029

 

 

  

http://www.simplyrecipes.com/recipes/blackberry_cobbler/ から

これはブラックベリーのコブラですが、これを見て、先のレシピを眺めると、「コブラ」というお菓子の、大げさに言えば、方向性がみえてきます。ああっ!そうなんだ。フルーツの上にビスケット生地をのせるのも、パフペイストリィをのせて焼くのも同じ目的なんだと気が付きます。アメリカのコブラのレシピは1877年から現在に至るまで、ほとんど変化がありません。

しかし、ホワイトハウスのレシピは、やはり頭一つ上に出ています。パフペイストリィをコブラに使うことは気が付きませんでした。格調高いコブラに仕上がっています。 

それではプディングのようなコブラはどこから来たのでしょう。やはりこれは、イギリスからではないかと思い、私の悪い癖で山を張ってみました。2つの理由を拾い上げてみました。

一つはアメリカのかつてのイングランド植民地のレシピ、二つ目はイギリスのレシピです。これを見て、一番最初に取り上げたコブラと次のイギリスがらみの2つのコブラが全く異なる内容であれば、二種類のコブラがアメリカに存在する理由がわかると思います。

   


http://12tomatoes.com/georgia-peach-cobbler/
 から

 

ジョージア州は「モモの州」と呼ばれ、州の中でもっとも有名なお菓子がピーチコブラです。又、ジョージア州は1732年から1802年までイギリス領北アメリカ南部植民地でした。そのジョージア州のコブラのレシピを取り上げました。

 

ジョージアピーチコブラ

 

材料(8-10人分)

生のピーチ            6-8個

溶かしバター             1本

小麦粉               1カップ

砂糖                1カップ

ブラウンシュガー         1カップ

ベーキングパウダー         1 TBS

塩                  1/8 ts

ミルク              1カップ

バニラエッセンス          1 ts

レモンジュース           1/2個

 

方法;

1. 溶かしたバターを9 x 13 インチの大きさのベーキングディッシュに入れる。

2. ボールに小麦粉、砂糖1カップ、塩、ベーキングパウダーを入れてゆっくりとミルクを注ぐ。バニラを入れて混ぜる。バターを (2) で作ったバターの上に流し入れる。

3. ブラウンシュガー、スライスしたピーチ、レモンジュースをソースパンに入れて強火で熱する。砂糖を溶かしてピーチから汁が出るまで混ぜる。

4. ピーチをバターの上に入れる。

5. 190℃で40-45分間、表面がきつね色になるまで焼く。

 

 

 

ここに用意した料理書はThe Pudding Clubによる “ Great Britsh Puddings “ です。その中からPlum and cinnamon cobbler を取り上げました。

 

材料(6-8人分)

プラム                700g

オレンジの皮とジュース        1個

ライトブラウンシュガー        75g

シナモンスティック          1本

バター                75g

小麦粉               175g

ベーキングパウダー          2 ts

塩                  -

シナモン               1 ts

ミルク                125g

デメララシュガー           1 TBS

生クリーム

 

方法;

プラムを半分に切って種を取る。大きなソースパンにオレンジジュース、ライトブラウンシュガー、シナモンスティックを入れてゆっくりとボイルする。3-4分ボイルして火から下ろす。45-60分間冷まして、23 cm のベーキングディッシュの中に6 cm の深さまで入れる。

ボールの中に小麦粉、ベーキングパウダー、塩を入れてクラム状にする。又はフードプロセッサーに入れてクラム状にする。シナモン、オレンジゼスト、ミルクを混ぜて、ドウのような混ぜ物にする。

混ぜ物を果物の上にひと匙ずつ入れてその上にデメララシュガーを振る。220℃で25-30分間きつね色になるまで焼く。熱いコブラにクリームを添えてサーブするのが一番美味しい。

 

   

 

これは、プディング・クラブの裏表紙に使われている絵ですが、思わず「エッツ!」と声を出さずにはいられないくらいに,精緻で正確なプディングの姿です。

ビートン夫人の頃のスタイルでもありますが、歴史が営々と引き継がれていることを思い知らされた絵でもあります。ここにご紹介しておきます。

 

 

それでは果物の上にビスケット、クラムをのせて焼く、コブラはどこから来たのでしょうか。賢明なる( このブログをごらんになっている ) 諸氏なら即座に “ フランス ” と答えられることでしょう。

ここにもう一つの料理書があります。Lee Bailey’s Country Desserts という本で、リー・ベイリーが子供の頃に家族が作っていたレシピを集めたものです。彼はルイジアナ出身です。150のレシピの中にコブラが4種。もちろんピーチコブラも入っていました。このレシピが今のアメリカの代表的なコブラであれば、私の思惑は当たったということになります。もちろん賢明なる諸兄の考えも。(ルイジアナ州は元フランス植民地で1812年、アメリカ合衆国の州になったのです。)


 

それでは果物の上にビスケット、クラムをのせて焼くコブラはどこから来たのでしょうか。賢明なる( このブログをごらんになっている ) 諸氏なら即座に “ フランス ” と答えられることでしょう。

ここにもう一つの料理書があります。Lee Bailey’s Country Desserts という本で、リー・ベイリーが子供の頃に家族が作っていたレシピを集めたものです。彼の家族はルイジアナ出身です。150のレシピの中にコブラが4種。もちろんピーチコブラも入っていました。このレシピが今のアメリカの代表的なコブラであれば、私の思惑は当たったということになります。もちろん賢明なる諸兄の考えも。(ルイジアナ州は元フランス植民地で1812年、アメリカ合衆国の州になったのです。)

それでは、ルイジアナのピーチコブラを見てみましょう。

   

               Lee Bailey’s Country Desserts から

 

ピーチコブラ 

材料;

小麦粉                 1 1/2カップ

塩                    1/4 ts

ショートニング             1/4 カップ

氷水                   5 TBS

大きく熟れたピーチ             7個

砂糖                  1 カップ

バター(小さく刻む)           1/4カップ

ホイップクリーム又はアイスクリーム    -

 

方法;

深い、7 x 9インチの大きさのディッシュにバターを塗る。

小麦粉、塩をフードプロセッサーに入れてバターとショートニングを入れる。小豆になるまで回す。氷水を入れてまとめて冷臓器に入れる。ワックスぺーパーに挟んで延ばす。ピーチをスライスする。

ドウを大きく延ばしてディッシュの中に敷き込む。その中にピーチを入れる。砂糖を振り、刻んだバターをのせる。延ばしたドウの端をパタッとピーチの上に折り返す。

オーブンに入れて220℃で45分間表面がきつね色になるまで焼く。ホイップクリーム又はアイスクリームを添えてサーブする。

 

コブラはアメリカに入植した人達が祖国の味を、大陸で手に入る果物を使って再現したお菓子です。その土地土地で少しずつ変化した結果、pandowdy, grunt, slump, buckles, crisp, croustade, bird’s nest pudding、crow’s nest pudding等とコブラはいろいろな名前で呼ばれています。Lee Bailey’s Country Desserts のコブラの表紙絵の左下にも “ コブラ等 ( Cobbler and the like ) “ と、書かれています。

 

 

 


 

 

 


ハーブ

2017年09月02日 | レモンバーム

レモンバーム 9

広告とパンフレットに使われた羊皮紙はモベールの修道院の聖ジャックのブラザーヨアヒム1715年に書いたもので、ここにはレモンバームの本当のレシピが書かれています。このレシピは秘密裏にされており誓いの許、カーメライトの修道士又は修道女に限り伝えたものです。(羊皮紙は東の、レバノン又は聖地パレスティナ由来のものと思われます。)このレシピはプレイス・モベール( Place Maubert, nicknamed La Maube1,2,3,4 is a square located in the districts of the Sorbonne and Saint-Victor of the 5th arrondissement of Paris )にある大カーメライト修道院にあったレシピを発展させたもので、レモンバームウオーターとして荷役人らにヴォージラール通り( the Rue de Vaugirard )の修道院を通じて売っていました。

カーメライトウオーターは、カルメル修道院が1607年にヴォージラール通りにできると、そこでも売られるようになりました。又、カーメライトの秘薬としてプレイス・モベールで扱われるようにもなります。( 2つの修道院であつかわれるようになったのです。)

 

先のレシピは聖ジャクのヨアヒム修道士に、二つ目はダミアン修道士に手渡されました。二つの違いは大カーメライト修道院のものであるものと、それを変えたものとの差です。

今では、残念ながら1790年以前のカーメライトウオーターを知る者は誰もいません。ヴォージラール通りで売られていたものには専売権がついていましたし、誓いはしっかりと守られていたのです。

エメリーD'Emmery身許不詳)が1659年に初めて、カルメル水を薬局方に適合したものに処方します。これは先に述べたヴォージラール通りのものではなく、プレイス・モベールのものです。

 

カーメライトウオーターはこの後、レモングラスウオーター、メリッサ、カルメル水(Aqua Carmelitarum)、カーメライト水(water of the Carmelites)と様々な名前で世に送り出されます。1755年の文献では23.5万ポンドを1年で稼いだといわれています。カーメライトウオーターにそれだけの価値があったのでしょうが、聖人を持ち出してまでの販売、利権争いもあったでしょう。

 

引用文はこの後、相当長く続きます。興味のない方はこの辺で切り上げて、2週ほど後に訪問していただいて、様子見をなさるといいかもしれません。フランス語ができる方は、引用先の http://www.wikiwand.com/fr/Eau_de_m%C3%A9lisse_des_Carmes_Boyer をご覧になると手間が省けます。ブログは他からの引用も挿入しながら少しの間つづきます。

 

 


ハーブ

2017年09月01日 | レモンバーム

レモンバーム 8

メリッサ水(カーメライトウオーター)の歴史は古く、約500年前のカールⅤ世(Charles Quint , Karl V. 2/24/1500-9/21/1558、神聖ローマ帝国のローマ皇帝。ハプスブルク家第3代の皇帝にして、スペイン国王(Carlos I)にまで遡ります。メリッサ水は、サン=ジャスティの大修道院が1379年に作ったオー・ド・デ・カルム(アンゼリカ、メリッサそのほかのオイルを入れた)をもとにアヴィニョンのカルメン修道会が商品化していました。

 

          

              

             メリッサ水の広告とパンフレット

 

広告(右上)には十字架のヨハネとイエスのテレジア(アビラの聖テレサ)が描かれています。修道院毎の、修道会ごとの霊薬の配合はシャルトリューズ( Chartreuse;カルトジオ会に伝えられた薬草系リキュールの銘酒 )のように守られていました。

 

つづく。