≪「教理と行証 真言密教の基本」より:三井英光著≫
真言密教は、一言でいわば神秘体験の宗教であるといえる。心眼を開いて遍く観照する時、生きとし生ける、有りとし有らゆる、すべてのものを包み生かしている大宇宙は、それ自身絶対にして無限、しかも永遠に生き通せる大実在であることが体解出来る。しかしそれは肉眼や五官の感覚や知覚では到底捉え得ないから神秘といい、しかもそれは厳然と在って、すべてを生み出す本源として体験出来るから実在という。この大実在を心に深く知るを覚りといい、そこから魂の悦びも心の安らぎも生まれるし、またその境界に住して自他のために祈れば、真実の利益効験となって現成する。この大実在の内容を心ゆくばかり説き示したのが真言密教の教理であり、それを心にこなし身につけて自在に自らや他の幸福をもたらすための行法がその秘法ともなる。その教理は、人間の宇宙観人生観の至極を窮めており、生きがいある人生を生きぬくための要諦を尽くしている。随ってそれを知ると共にその内容を味わい、それを生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福がわいて尽きないのである。・・・
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三井英光師の言葉として冒頭部分からの抜粋です。一般人の私には少々難しい内容でしたが、どこか胸躍るような高揚感をもって読み耽った御本です。密教における「神秘の実在」を掴むこと…。この身このままで成仏できるという教えと現世利益。この世に生を受けた自分という存在の不可思議を解き明かす世界がここにはあります。真の自分という大実在を捉えた時、無限の喜びを得ることが出来るということ…。これが真言密教の要髄です。
以前、私は仏様に助けて頂いたと本当に実感した事(内容は秘す)が過去幾度とございます。元来「信じる(自己を見失い、全くの他力によって)」と言う行為は好きではないのですが、その体験を通じ、事実として認識してしまった現象は否定したり、受け入れずに居ることはやはり出来ないものです。ですからこの場合の「信じる」の意味合いは「絶対なる信頼」と言う次元にシフトしたものだと思うのです。そして仏様の存在を実在として実感すればするほど自らの襟を正し、自利利他の精神を忘れず、「生かされている」という真摯な気持ちで「どんな苦境も自らの糧として生きていく事が出来る」とそう思っております。そして、各々がその置かれた場所での成すべき事(「伝えていく」という)を成すという行為がいかに尊いものかと感じぜずには居れないのです。