Apu の All That I Am

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ポール・ゴーギャン

2007年06月07日 | あぷ こころの風景 思索

  Paul Gauguin 1848~1903


 ゴーギャンは力強い輪郭線と原色使いを特徴とする画家とのこと。結構、ハッキリした性格だったのかも知れない。ヨーロッパに生まれながら、その数奇な人生から生涯「西欧文明への抵抗」をし続けた画家らしい。それは西欧文明に裏切られたからなのか、幼少期(ペルーで過ごしていた)への憧れなのか・・。人間が持つ野生・・むしろ野蛮なものへの思慕と人間らしさを失った西欧文明への抵抗が、彼に「タヒチの絵」を描かせたと言うが・・・


   「タヒチの女(浜辺にて)」(1891)


 そんな彼も最初のタヒチからフランスに帰るときには、西欧での自身の「タヒチの絵」の成功を夢見ていたらしい。人間の欲得とはそのようなものなのかもしれないし、むしろその成功が西欧への抵抗そのものだったのだろう。しかし、戻った彼の絵はあまり評価されず、失意の底に叩き落される。そしてゴーギャンは再びタヒチに向かう・・・


   
「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」(1897)

※↑クリックすると画像が大きくなります。


 彼は病(梅毒と聞いたが)も患い、タヒチにも見放される。そして追い討ちをかけるような突然の「愛娘アリーヌの死」の便り・・。きっと計り知れない絶望や言い知れない無力感が彼を包んだだろう。結果、彼は自殺を決意する。その時、彼が残したのが代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」(上記)。

 この絵は人間が誕生してから死に至る物語が描かれているとのこと。右から赤ん坊(誕生)と裸の女性、服を着た者(理性)、果実をもぎ取る女性と果実を食べる女の子(失楽園)、青白く光る女神の偶像(彼岸)、艶かしいポーズの女性(運命)、何かを恐れている老婆(死)・・・そして白い鳥・・・ゴーギャンは「人間の人生」をタヒチに在るものだけで描いた。強烈なまでの「死」の現実感、「人間とは何か?」という我々自身の存在への問い・・。「人間」の薄っぺらさと西欧文明を重ね合わせ、あくまでも野生的なタヒチと対峙させる。そして制作後、ゴーギャンは服毒自殺を図る。

 左端の「白い鳥」は軽薄な言葉の空しさを象徴していると聞いた。ゴーギャンが抱いた「人間存在への問い」と本来人間が持つ「野生」への回帰。そして、観る者の理解を拒むような左端の「白い鳥」・・。この腐った人間世界への静かで強烈な抵抗がこの絵を生む。



 「二人のタヒチの女(赤い花と乳房)」


 しかし、彼はそこで終わらなかった。一命を取り留めたゴーギャンは最後の3年間をさらに離れたマルキーズ諸島のヒバオア島で過ごした。そこにアトリエ「快楽の家」を建て、幼い妻を娶ったのだ。彼は未遂に終わった自殺で生まれ変わったと言われる。壮絶なまでに自分の全てを出し切って生まれ変わったのだろう。その後、彼の画風はそれまでと変わり、印象派の絵のように柔らかいタッチと中間色で塗り込められた。そのことが意味するもの・・・それは自我を剥き出しにしていた若かりし頃からの変遷。「人間存在の愛しさ」への昇華。ゴーギャンは生きながら彼岸に渡ったのかも知れない・・・

 「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか」・・本来として誰一人としてこの問いに向き合わずにはいられないだろう。この問いは我々の人生と存在への問いであり根本的である。もし、この問いに盲目だとすれば、恐らくは人生に未熟であるか、的外れか、忙殺による麻痺なのだろう。問いに「我々は・・・」とあるところ、ゴーギャンは文明に毒され人生に麻痺した人たちに、ニヒルに・・真剣に警鐘を鳴らしたのだと思う。そしてこのことは当時よりもこの現代にこそ鳴らされるべきであろうし、その答えを得ることが人生を幾倍も濃密にさせ、昇華させる唯一の方法ではないかと思う。


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