Apu の All That I Am

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十七清浄句(煩悩即菩提)

2007年04月01日 | あぷ こころの風景 思索
 「十七清浄句(煩悩即菩提)」を獲得する上で必要なことは、分別(精査して理解して…)により様々知ることも大事なのでしょうが、結局は加持による合一(仮に一体感とでもしておきましょうか…)が重要なのだと考えます。このことを前提に自分が思うところも述べさせて頂きます。

 さて、前文と矛盾をするようですが、それでも意密という意味で頭で知る(理解する)ことが大事なことであることに違いはないとも思います。それは華厳経の世界や大日経の「大悲胎蔵曼荼羅」、金剛頂経の「金剛界曼荼羅」、般若心経の空観、特に金剛さったの「五秘密尊(曼荼羅)」…など理趣経成立までの様々な歴史及び仏教思想を知ることから始まるのでしょう。…だからと言って自分自身が上記経典や曼荼羅を理解しているわけではありませんが、【○○○○さん】の投稿『> 経典だけの理解によって、理趣経の文言を解すことは不可能であると思える。』にもございます通り、改めて理趣経のみで理解を深める事の不可能さに今更ながら気付いたものであります。さらに三密(身密・口密・意密)加持を行った上での即身成仏となると全くもって一般人には到底無理な所業にすら思えてくるのです。

 ただ、なんとなくですが「十七清浄句(煩悩即菩提)」に関して私が理解(とりあえず、こんな感じかな…と)できるのは総てが大日如来の顕現であることから、この世界に存在する物に不浄な物はないとする考えと、その大いなる大日如来の内側で幸か不幸か自由意志を持たされ生きている自分(たち)の所業との接点を述べているのではないか?…と言うことです。しかし、その文言のままではこの世界は無法地帯になりかねません。やはりきちんと理解(この期に及んでまだ「理解」…とな^^;)するには弘法大師が著した「秘密曼荼羅十住心論」なり「弁顕密二経論」、「三教指帰」等々に触れる必要性が出てくると思います。

 私自身は理趣経の大事な部分(トピック違いと思いますが…)は第十七段であって、特にその後半「百字の偈」だと思います。「金剛さった」の存在意義はこの部分にあると思いますし、翻って自分(たち)自身がその「金剛さった」であることに(様々な経典や行を通じて)気付く必要があると思うのです。

 繰り返すようですが、私は理趣経・十七清浄句は文言のみでは到底理解不能であろうことに気付き始めました。このコミュニティを始めたことすら恐れ多く感じています…(苦笑)ここ何ヶ月か真言宗系の寺院を回り、全く拙い体験ですが積み重ねて思ったことは、実体験こそが大事であり、その積み重ねる実体験の中からこそ「神秘の実在」を掴む事ができると言うことです。そして自分が講釈を垂れる立場に無いこと、まだまだ行を修める必要があることにも気付きました。

 …と言うことで、大変申し訳ないのですが私は近々にこのコミュニティは3月末までには閉鎖しようとも思っています。どなたか引き継ぎたい方が居られるようでしたらご連絡下さい。コミュニティ名など変更されて構いません。全く無責任で恐縮ですが宜しくお願い申し上げます。

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以前に mixi に投稿した文面です。まぁ、実にいい加減な管理人でした…(汗)
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