「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

永井荷風「摘録 断腸亭日乗(上)」P85

2015年11月14日 10時41分39秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
永井荷風「摘録 断腸亭日乗(上)」P85

八月三十日。
風ありてやや涼し。
曝書(ばくしょ)の傍(かたわら)久しく見ざりし書物何といふことなく読みあさるほどに、
暑き日も忽ち西に傾き、つくつく法師の啼きしきる声せはしなく、
行水つかふ頃とはなるなり。
予は毎日この時刻に至り、独り茫然として薄暮の空打ちながめ、
近鄰の家より夕餉の物煮る臭の漂ひ来り、
垣越しに灯影(ほかげ)のちらほら輝き出るを見る時、
何とも知らず独(ひとり)無限の詩味をおぼえて止まざるなり。
(引用終わり)

抜き書きとしては気の利かない箇所かも知れないけれど、
荷風散人のこういう何気ない文章にも惹かれる。
日本語を大事に使っているなぁと思う。

日本語と言えば、最近再び高島俊夫の本を読み始めた。
至福の朝、「本が好き、悪口言うのはもっと好き」を拾い読み。
タイトルは毒々しいが、言葉への愛情が詰まっている。
何度読んでも「へぇーーそうだったのかぁ」。
また数年経ったら読もっと。

好きな作家の共通点。
夏彦翁も周五郎も高島さんも、とにかく自分の文章を削る。
削りに削って、これ以上削るといくらなんでも意味が通じなくなるという寸前まで削る。
文章家や名文家と呼ばれる人は皆そうなのでしょうね。
それから言葉を大事にしている。
以前何かで読んだと思うのだが、褒めた文章に悪いものは無いという。
とすると貶した文章はやはり読んでいて気分のいいものではない。
にも拘らず高島さんの文章は面白い。
日本語への愛が勝っているからだろう。
それと「おかしみ」「笑い」がちりばめられているからだろう。
夏彦さんも再三再四言っていたなぁ。

「孟子」上 金谷治 P132~ (承前)

2015年11月14日 10時40分09秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「孟子」上 金谷治 P132~ (承前)
これに由(よ)りてこれを観れば、
惻(あわれ)み隠(いた)む心なきは、人にはあらざるなり、
羞(は)じ悪(にく)む心なきは、人にはあらざるなり、
辞(くだ)り譲(ゆず)る心なきは、人にはあらざるなり、
是非(よしあし)の心なきは、人にはあらざるなり。
惻(あわれ)み隠(いた)む心は仁の端(はじめ)なり、
羞(は)じ悪(にく)む心は義の端なり、
辞(くだ)り譲(ゆず)心は礼の端なり、
是非(よしあし)の心は智の端なり。
人のこの四端(したん)あるは、猶(な)おその四体あるがごとし。

乳児の井戸に落ちる譬(たと)えから推し及ぼして、孟子はついに、あわれにいたましくおもう「惻隠(そくいん)の心」、悪しきことをにくむ「羞悪(しゅうお)の心」、へり下り人をすすめる「辞譲(じじょう)の心」、よしあしをみわける「是非の心」の四つを人間本有のものとし、それぞれ仁義礼智となる「芽生え」端(たん)だとする。「人のこの四端(したん)あるは、猶(な)おその四体あるがごとし。」四つの手足があるように、およそ人たるかぎり、四端は必ず具わっている、と孟子の主張はいよいよ力強い。
(引用終わり)

孟子序盤の大盛り上がりの場面。
漢文読み下し文の名調子。まるで講談か歌舞伎の一場面。
内容はもちろんだが、とにかくこのリズムを味わいたい。
その為には、音読に如(し)かざるなり。
性善説だの性悪説だのという分類作業は学者様にお任せして、
凡夫凡婦は、只管(しかん)音読。只管(ひたすら)あたかもお経を唱えるが如く読むべしってネ。
あしたのためにその一、ジャブ・・・声に出して、読むべし、読むべし、ヨムベシ・・・。

古人(孔子)いわく、
「述べて作らず」
「学ぶに如かざるなり」。