「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

金谷治訳注「大学」 第三章後半 心焉(ここ)に在らざれば

2015年11月23日 22時05分43秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
金谷治訳注「大学」 第三章後半 心焉(ここ)に在らざれば

心焉(ここ)に在らざれば、
視れども見えず、
聴けども聞こえず、
食らえどもその味を知らず、
此れを、身を脩(おさ)むるはその心を正すに在り、と謂う

心がしっかりと正常に落ちついていないと、
何かを視てもはっきりとは見えず、
何かを聴いてもはっきりとは聞こえず、
何かを食べてもその味がわからない。
〔これでは身の修めようがないわけである〕
「わが身をよく修めるには、まず自分の心を正すことだ」というのは、こういうことである。
(引用終わり)

今を去ること四十五年前、富山市立南部中学校(南中)の理科の授業で、先生が生徒に向かって再三再四言っていた言葉がありました。
「『こころここにあらざれば、ものみえず、きこえず。』わかったがけ?わからにゃ何回でもいってきかしたげる。」
「大学」を読んでこの章句の事だったのかとわかったのは、随分後の事でした。
また、その先生は、
「おまえたっちゃ唾をぺっぺ、ぺっぺとはいとるけど、よのなかにゃ唾液が出なくて苦しんどる病気のかたもいるがだぞ、ばちあたりもんどもが。」ともおっしゃっていたことを思い出します。
その先生、学年主任で、当時は珍しいラビットという大型のスクーターに乗っておいででした。
如何せんお名前が思い出せない。だれかおしえてくれないかしらん。
授業のことはまったくと言っていいほど思い出せませんが、そんな話はしっかりと記憶しているものなんだなぁと、不思議な感じがします。これこそ道徳の授業なのかも。