ふるさとの香々地(かかぢ)にかへり泣かむものか生れし砂に顔はあてつつ
今日からの主役は江口章子である
それも北原白秋の2番目の妻としてではなく、一人の詩人として書く
改めて章子の誕生から小田原在住までを、略年譜で振り返る
1888(明治21) 大分の現・豊後高田市に旧家江口家の4人兄姉の末娘で誕生
1889(明治22) 1歳 6歳年長の兄を事故で失う
1899(明治32) 11歳 父を病で失う
1901(明治34) 現・大分市の高等女学校で学ぶ
1902(明治35) 14歳 次姉を出産で失う
1905(明治38) 17歳 大黒柱母を病で失う
1906(明治39) 18歳 検事上がりの弁護士と結婚して大分町に在住
1907(明治40) 19歳 章子の良い理解者だった祖母を失う
1913(大正02) 25歳 家出した長姉を病で失う
25歳にして直近の身内を一人残らず亡くした章子
1889(明治22) 1歳 6歳年長の兄を事故で失う
1899(明治32) 11歳 父を病で失う
1901(明治34) 現・大分市の高等女学校で学ぶ
1902(明治35) 14歳 次姉を出産で失う
1905(明治38) 17歳 大黒柱母を病で失う
1906(明治39) 18歳 検事上がりの弁護士と結婚して大分町に在住
1907(明治40) 19歳 章子の良い理解者だった祖母を失う
1913(大正02) 25歳 家出した長姉を病で失う
25歳にして直近の身内を一人残らず亡くした章子
1915(大正04) 27歳 放蕩と浮気に悩まされた夫と離婚する
そして同年、幼い時からの夢だった詩人への道を歩もうと上京
平塚雷鳥が中心となって創った「青鞜」社に入社する
平塚らいてう1886(明治19)-1971(昭和46)
思想家・評論家・作家・フェミニスト・女性解放運動家
その後は既に書いたとおりだが再掲する
1916(大正05) 28歳 白秋と同棲 葛飾の市川真間、次いで小岩に住む
1918(大正07) 30歳 極貧生活で体調を崩し、療養のため小田原に移る
1920(大正09) 32歳 山荘の地鎮祭祝宴騒動後に出奔 白秋は離婚を届ける
その後の章子の人生をぜひ知りたい
が、その後の彼女に関する情報が殆ど見当たらない
これでは追っかけ?も無理かな・・・と思っていたら章子の詩集が見つかった
「追分の心」というタイトル、発行日付は昭和9年9月1日 (1934年)
小田原で章子が姿を消してから14年後の日付だ
序文を生田春月が書き、読むと章子の人となりがよく伝わってくる
また、章子が尼僧になっていることもわかった
生田春月(いくたしゅんげつ) 詩人・翻訳家
1892(明治25)- 1930(昭和5)
この詩集には様々な地名や時には人名が出て来る
例えば61ページの「二月の東京で」という詩
”二月の雪の中を 九条武子さまの霊柩車がとほる・・・”と始まる
章子は彼女を知っていたのだろうか?
九条武子が亡くなったのはいつか・・・調べると1928(昭和3年) だった
章子40歳、その頃彼女は東京にいたのだ
九条武子(くじょうたけこ) 教育者・歌人
1887(明治20)-1928年(昭和3)
ついでに調べると九条武子は、西本願寺の当時の法主の次女で京都の生まれ
後に仏教主義に基づく現・京都女子学園、京都女子大学を設立している
江口章子を仏教帰依に導いたのは、彼女なのかもしれない・・・
ともかく、詩集「追分のこころ」は江口章子探索?の手掛かりになりそうだ
行く道は多難そうだけれど、ぼちぼち行くしかない
ということで今日はお終い
明日またお会いしましょう
[Rosey]