【小田原時代】
1918(大正07) 白秋と江口章子は小田原に転居する
白秋は鈴木三重吉の勧めで『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当
これにより収入が安定、創作に励む環境も整ってきた
1919(大正08) 伝肇寺(でんじょうじ)の竹林に「 木兎(みみづく) の家を建てる
茅葺屋根と麦藁で覆った「木兎の家」 右は章子と白秋 入口にいるのは章子の甥
この「木兎の家」、今は跡形もなく寺経営のみみづく幼稚園になっている
1920(大正09) 白秋は「木兎の家」の隣に3階建て洋館を建てる
その地鎮祭を盛大に行うが、これが悲劇の始まりとなった
「木兎の家」の隣の3階建て洋館
【地鎮祭の出来事】
会場に万国旗が飾られ、舞台、模擬店、楽団など200人ほどの大祝宴
小田原の芸者が全員集合、東京からも10名を超す芸者が駆けつけて大騒ぎ
この浪費ぶりに腹を立てのが、経済的に白秋らを助けて来た義弟や友達ら
大口論が始まり乱闘となり、負傷者も出て、警察官が駆けつける始末
その争乱中、章子が突然姿を消し行方知れずになる
理由は、新聞記者との駆け落ち、谷崎潤一郎の愛人・・・など諸説ある
しかし真相は誰にも分からない
白秋は不倫と信じたらしく章子と離婚する、そして・・・
1921(大正10) 白秋は3番目の妻・佐藤きく子と結婚する
佐藤きく子との結婚を伝える新聞記事
なお、3階建て洋館は計画通りに作られた
が、そこに住んだのは章子ではなく、山川菊子だったと思われる
その洋館も関東大震災(大正12)で傾き取り壊された
今日は最後に聴いて欲しい曲がある
花の季節はまだ先だが、曼殊沙華(ひがんばな)という曲。
曲の初めにGONSHAN (ごんしゃん)という言葉が出て来る
これは福岡の柳川の方言で、「良家のお嬢さん/娘」を意味するという
この曲を聞きながら、女性の感受性がなければできないのでは? ふと思った
となれば、創ったのは江口章子しかいないだろう
曼殊沙華(ひがんばな)
次回は行方が知れなくなった江口章子の足跡を辿ってみたい
それでは明日またお会いしましょう
[Roasy]