人間界の出自として比類なき出世を遂げたかつての冥界の大将軍ドラクール。
歩を進める度に足下から吹き出すオーラで百匹の魔物をたじろがせ、爛々と光る双眼の一睨みで千匹の魔物を打ち震えさせたと言われる彼は、あざやかなビロードのマントを着こなしていた。
すっぽりかぶった頭巾のせいで表情は読めない。
老いて一線こそ退いたものの、その切れはみじんも錆び付いていなかった。
(「我らが人である限り、我らのなすことは悪しきかよきことにならざるをえず。我らがなすこと、悪しきかよきことである限り、我らは人なり(So far as we are human, what we do must be either evil or good: so far as we do evil or good, we are human.)」。たしかT.S.エリオットとか申す詩人のセリフかと。絶対悪など絶対善が定義できはしないのと同様、私ごときにはできませぬ)かつての大将軍が思念を返した。(ですが、もしもそんな存在があるとしたら、神々が自らを正しいと信じているように絶対悪も自らを正しいと信じていることでしょう。絶対的な存在であれば悩む必要さえございません。自らを規定しなくても、対極の存在が自分を規定してくれるからでございます。対極にある存在がまちがっている限り、それに敵対するが故に自らが正しいと言えます)
(神が絶対的な地位にあるが故に、人間に畏れられ敬われるように、絶対的な地位にある悪もまた、人間に畏れられ敬われるのではないか?)
(おおせの通りです。人とは弱き存在。さきほどの詩人は、「矛盾するようだが、悪しきことをするは何もせぬよりよきこと。少なくとも、それで我らは存在する」(and it is better, in a paradoxical way, to do evil than to do nothing: at least we exist.)と続けております。
そもそも、自らに無きものを欲することこそ、人間の行動原理。究極の存在、もしもそんなものがあれば、人間たちの心を惹き付け離さぬことでしょう。)
(かつて「串刺し公」と畏れられたお主は、そうした存在ではなかったのか?)
(おたわむれを・・・・・・)
(究極の存在が自らの正当化に対極を必要するというのは、おもしろい。だが、「絶対善」・・・・・・はたして、そんなものが神々の世界にもあったであろうか)
プルートゥとのやりとりは、まだドラクールが人であった頃に「虚無の王」と呼ばれ、かつて自分の「影」でもあった存在を思い出させた。
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