My violin & My life/ Life is a Bumpy road

スタートラインはいつもそこにある!
Life is Impermanent.

本家「なごり雪」

2011年04月17日 | 崖っぷち★レッスン日記
春なのに雪。
え。。。?って、
もう桜も散ってしまった地方の方々には、違和感もあるでしょうね。
でも、うちのクルマ、タイヤはまだスタッドレスですから。

さて^^;
すみませんが引き続き「なごり雪」
本家の歌を聞いた記憶がありませんでした。
イルカさんが本家だとばかり。ちがったんですね。

聴いてみました。伊勢正三さん。
本家なごり雪、を見つけました。
 1974年 かぐや姫 伊勢正三
  1978年 風 伊勢正三


こうして聴いてみると、かぐや姫の時の「なごり雪」の声が好きです。
時を経て、後年もご本人が歌われていますが、
この歌には成熟した声は合わないのではないかなと思ったり、、、、
いや、それぞれの良さはあると思いますけどね。つまるところ、好みでしょうね。

私はかぐや姫の歌は積極的に聴いたことはなかったのですが、
当時、どこへ行っても流れていました。そして、このグループの歌に描く女性像が
ちょっと私には納得いかなかったですが、、、それは、私が未熟だったからなのかもしれません。理屈で考えては歌にならない?(笑)(恋愛未熟モノ。理屈ニンゲン。^^;)


歌にはその時代の風を感じます。
カバーされるとまたその時の風になり、別の雰囲気が生まれ
同じ歌詞なのに、受け止める心で意味合いが変わり、、、
(以前、ビートルズの「ヘイ・ジュード」のゆくえを書いたことがありますが、、、)
不思議な面白さを感じます。

「なごり雪」これでおしまいにしますね。(この映画があったのが驚きでした~しかも三浦友和。中年編。)

そうこういううちに。端午の節句も近い
もうすぐゴールデンウィークだ。
なんだか、ゴールデンな気がしない日々です。
こんなこと書いているけれど、気持ちは落ち着きません。

「雨二モマケズ…」の詩が今また静かに広まりつつあるようです。




四月の雪

2011年04月17日 | 崖っぷち★レッスン日記

今朝は雪でした。

さすがに・・・今は名残惜しくないです。(T_T)/~~~
このところ、気温も上がり春めいてウキウキし、そこに水を差された感じ。
これを繰り返して桜を待つ。う~ん。




今全くなごり惜しくないけれど、w
「なごり雪」

この歌を思い出しています。
学生の頃、ギター片手によく歌いました。(恥ずかしい思い出)
2月に、今は亡き叔母の住んでいた東京に遊びに行った時のことが、
「なごり雪」を聴くといつもすぐに、思い出されます。寒いけれど光春めく2月でした。
当時住んでいた京都から新幹線で、時には夜行バスで行きました。京都とは全く違う風景を空気を感じました。
「啓蟄が過ぎると来るんだね(笑) 虫と同じ。」と笑われました。叔母の友人からは「しあわせだねえ。(笑)」とも言われました。試験がすんで暇、ってことで。図星ですが、社会人にそう言われて、当時の私は少ししぼんだ一瞬でした。^^;
叔母の山仲間に連れられて富士山に登ったり、足利を歩いたり、いつも辛口トークでしたがよくしてもらいました。


*徳英明さんカバーのなごり雪
大人ですね。これは哀しいっ!

うわぁ~、見るとたくさんの歌い手さんがカバーしています。
松浦あやさん、平原綾香さん、鬼束ちひろさん、、、ほかたくさん。意外なのはⅩジャパン!(笑)

私が馴染んでいる「なごり雪」は、イルカの声で、ですね。









教室移転。

2011年04月16日 | 崖っぷち★レッスン日記
先生の事情によりバイオリンレッスンの場所が変わりました。
これまでの楽器屋さんででレッスンを続けることが困難になり、、、
どこか代わりの場所がないかと、探しました。(なぜか私~)
急きょ、以前エアロビクスの教室を持っていたお友達のアドバイスを受け、候補の3か所を先生に選んでいただき、
教室のお引越し完了。運ぶものは先生譜面台のみご自分で。(笑)。人間のみの引っ越しです~

さてそこは~

とある公共施設ですが、、、、
先日引越し第一日目、行ってまいりました。
横にある駐車場に車を止めましたが、、、、

もうそこで1階の窓から演歌のCDがやたら大きく聞こえる。チャンチャかチャンチャン・チャ~ン。うわー。
玄関ロビーのドアを開けると、すぐ横の部屋で大正琴の練習をしているのが見えた。。(学校にみたいに中が見える引き戸の部屋)
さっきの演歌のCDに合わせて、おばあちゃんたちが真剣にやっておられました~。CDに合わせるのね。。高度かも??。。私はCDと合わせるとおいて行かれるもの。^(T_T)/~~~

珍しいものを見た気分で、私はレッスン室に決まった2階の「研修室A」へ。
そこはいつもの先生の雰囲気が。ほっ。  中に入りドアを閉めると階下の音は聴こえなかったので安心。。

そしてレッスン。・・・やたらと響くんですね。。なんで?
一緒に弾いて下さる先生の音と私の音が、わけわからないくらいワンワン響き合って、
これは慣れるのに大変だわ。うろたえるな自分!

この日はローデのコンチェルトの初回です。
普段より丁寧に譜読みしたつもりでしたが、ああ、ちょっとのことで何か調子が崩れる。落ち着きません。あれ?え?
・・・それにあのひどかったヴィオッテイの後なのに、今回はテンポのブレを許してもらえず、(前は初回の時は少し目をつむってくれた~成長せい、ということか、、、^^;)
かなり形になるように引っ張られた感じです。まあこれが本来なんでしょうね。
スラーは外して練習し、音程をもっと確実にして来るよう日、これは定番の注意をいただき終了。

もう次のレッスンも近いので、頑張ろう。
                      







どこにしようかさんざん迷ってからやっと、募金しました。
知り合いの息子さんが、被災地(仙台方面)に出かけて人的支援をしていることを知り、
僅かながらもそのチームの後方支援をしようと思いました。報告を聞くと、現状は大変厳しいものだとわかります。




地震/コノ・・・イッカゲツ・・・

2011年04月09日 | 或る日或るとき

先月の9日。

震度1くらいの地震を感じ、宮城のほうはもう少し強く揺れていたらしいので、その地方に住むネットのお友達にメッセージを送ってみたら、(携帯メールは遠慮)
「大丈夫よ~」と返信が来たので、それはよかったわ~
・・・で、すんだ。

そのすぐあとの11日。

娘が「お母さん、9日は日は引っ越しして東京の生活を始めた日だったね!もう2年もたったのだわ!」と電話してきた。そうね、荷造りや荷ほどきの最中にかけてたレミオロメンの「3月9日」って言う曲が懐かしいね。

2年前の3月9日の午後、私達は羽田に着いて、管理会社に直行して鍵を受け取り、娘と別れて私はその足で、聴きたかった某大学オケの弦楽セクションのコンサートにひとりで行った。学生オケを聞いたのはこれが初めてだった。

翌日、契約したマンションで、こちらから送った引っ越し荷物を受け取り、・・・・
なんてことをその電話で懐かしく思い出していた。過去を「懐かしく思う」、平和というのはこういうことか。(そこまでに至るに、ずいぶん苦悩の日々があったことなど遠くなっていた。)

送って欲しいと頼まれていた荷物のことで、「いつ頃届くの?」 と聞かれ、明日送ろうと思うことを伝えている間に、揺れが来た。娘のところのほうが揺れは大きく、彼女の恐怖感がしだいに大きくなるのがわかった。振動で戸棚の上に置いてあるたくさんのコスメの容器が触れ合いカチャカチャいう音が聞こえてくる。姿見が倒れそう、、、向かい側の机がこちらに移動してくる、パソコンが(ディスクトップ)倒れた、、慌てる娘にこちらも揺れながら安全のための指示をするのは怖かった。遠く離れているのがつらかった。

その時話していた携帯を切ってからは、つながらなくなった。携帯電話が復旧して様子がわかるまでは落ち着かなかったが、のちに、被害が無かったことがわかると安堵。

3月9日の揺れが、あんな巨大地震の前触れだったなんて考えもしなかった。日常、地震のことは少し気にかけていた。携帯にはツイッタ―の地震速報はいつも入っていた。結構頻繁に微震が観測されているのだなと見ていた。けれど、何か自分のこととは遠かったような気がする。。

地震のその後は、恐怖と緊張と、事の大きさとに、被災していない自分も半ば翻弄された。不意打ちを受けたような、ショックが大きい。そして都会の混乱。物不足、計画停電、水の安全度。(原発事故と言う恐怖。)どんどん不安な状況。情報錯そう。やや遅れてこの地方にも、その影響が及んでいた。 が、春の日差しは、何事もなかったかのように暖かい。なにか奇妙な感覚だった。自然は私の心と無関係に動いている。

 小出しにされてしだいに明らかになることと、並行するツイッタ―の動き、行き過ぎて先導、、それらを受け止めることに戸惑ったれど、今は少し頭が整理されてきた。何事も、うのみに出来ないという点で。

あれから1カ月経ち、blogを通してのお友達もこの地震についてを書くようになった。やはり直後には、いろんな意味で、書くのが無理だったのだろうと思う。私も。そして今も地震は続いている。復旧途中にまた被災されている方々がいる。これからのことに対する不安はいかばかりかと思う。

私自身はどうだ。・・・冷静に、これからのことを考えるときが今。慌てず、急いで、考えようと思う。そしたまた一カ月先、事態がこれ以上悪化しないでいることを願いつつ、この一大事を乗り切ることを余儀なくされた方たちの生活を思い、共に生きていく。それしかまだ私には思いつかない。