主は、野の草の一日のいのちにさえ、美しく装って備えて下さっている。その一本はちゃんと覚えられている。
まして、イエスさまから永遠のいのちを頂いた者の、その価値を誰よりもよくご存知の主が、本当にどれほどにか、よくしてくださらないわけがあろうか。
知ってはいても、折々に安息し得ないこの信仰の無さはなんだろう。
私は本当に、ソロモン宮殿の人々の優雅な衣よりも、野の百合の方が美しいと思うのだろうか?野で百合の花を見つけた時には、それは心を打たれるけれど・・・、歴史と伝統によって、技術とセンスを磨いて作り出された一枚の着物に、それ以上の美や価値を見ているというのが私の事実。
イエスさまと私の目は違う、イエスさまの評価と私の評価は違っている。
永遠のいのちに相応しい神の備えは、野の百合をイエスさまの御目で見るように見ないと私には見えない。きらびやかな物や、世の嵐に心を奪われるから、明日の心配から逃れられない。このことが、主が備えて下さった祝福の美しい日々を汚している。
「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:34)
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