![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/aa/d7ca2d0cc9de62963f3bccd4cc39a344.jpg)
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:3)
神様はことばをもって天地を創造された。地のすべてのものも、ことばによって造られた。
しかし、「人よあれ」とは言われなかったのだ!
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記1:27、2:7)
神様はアダムのために天地を造られたのであった。
彼らを此処に置くためであり、彼らにすべてを支配させ、彼らに地の収穫の喜びを与えるためであった。
そこには食べることの必要は完全に満たされていたから、それは生きる喜びのためであったことが分かる。
造られたばかりの聖いアダムは、神様のことばの中に居たのである。その時アダムは罪を知らなかった。
しかし善悪知識の木の実を食べて人は造り主から独立し、善悪の基準を自分で判断するようになった。蛇の言葉の通りに彼らの目が開け賢くなったのだ。
ただし、この目は肉の目であって、神に基準を置く真実な霊の目は死んだ。
互いを鋭く見つめる目が開かれると、人は真っ先に自分を恥じるようになり、そう・・人は自分に対してさえ取り繕い、言い訳をしなければならなくなった。
ありのまま、すべてが裸ままの自分自身を受け入れることは耐え難く・・。そう、それが賢さの正体である。
しかし、創造主である神様はご自身の造られた人に、執着し続けてくださった。
イエスさまがご自身を「人の子」と言い続けられたのは、罪を知って自己の惨めさに気付いた人類に、ご自身の姿を通して神の創造された素晴らしいアダムを見せるためであった。そう、罪を知らない完全なアダムの形を取ったキリストが来てくださった。それは、罪からの回復を告げるためであった。
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。(創世記3:24.4:1)
アダムはエデンを追い出された後にエバを知り、彼女はカインを生んだとある。それは神が創造された関係とは違ってしまったことを現している。
罪が入り込んだ人の間には、隠し事や、力による支配行われ、情欲によって子孫を産むようになった。そこには産みの苦しみと、家族を養うための困難が付きまとうようになった。
しかし最後のアダムであるイエスさまによって、神様はご自分の作品を御手の内に取り戻してくださる。
「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:30)
御国では完全な夫婦の喜びが待っている!造られたばかりのアダムとエバのあの日のように・・。ハレルヤ!
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩編8:4~5)