その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。(6~7)
パウロは、「神の力の働きによる、恵みの賜物」と言い、「たまわった福音に仕える者とされた」と言っている。良きものはただ神にあり、自ら仕える者となったのではなく、神によって「された」とある。
すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、(8)
その働きがパウロに与えられたのは、彼が「一番小さな私」とも「罪人のかしら」とも、口先ではなく信じている聖さにある。「この恵み」とは、彼を殉教にまで至らせるほどの恵みである。
パウロは主の教会を迫害して滅びて行く者であったが、イエスは罰するためではなく、救うために彼を選んで来てくださり、栄光の使命をもたまわったのであった。彼はその光栄なたまものを、いのちを捧げてあまりある祝福と悟ったのだ。
キリストの恵みのたまものを深く味わい、たまわった祝福がどのようなものであるかを知るなら、その感謝の分だけ働くことが出来るのだ。この故に神は、彼に多くのわざをお委ねになったのであろう・・。
また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、(9~10)
天に在るもろもろの権威や支配に対して、神の知恵を見せる働きを教会は負っており、その働きをパウロは委ねられている。それはなんと偉大な働きであろう。
私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(11~12)
パウロが経験していることは、キリストに在る者のうちに働くキリストの信仰により、恥じることも責められることも無く、神の御前に近しく在って安らぐことであり、其処にすべての備えが成されていることである。
自分の何ものかには拠らず、キリストの完成された恵みのすばらしさを、彼は本当にその幸いを教会と共有し、神の栄光を現わしたいのだ。
ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。(13)
パウロの艱難も殉教もキリスト者の誇るべきこととなり、それは、すべては神の栄光を現わすゴールであって、今に至るまで教会には光栄なことなのである。