神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。(4)
ネフィリムというものも神とは無関係に生きて、大きな体によって力を誇り名を上げ、力によって思うままに支配し蔓延っていたのだ。
この頃にはカインの家系、セツの家系と分けることが出来ないほどに、共に低きに倣って堕落して混ざりあい、神の定めや選びを求ず、望みを人の世に置いて、自分の好みや渇きのままに結びついていたのであろう。
悪に染まって行く生き方は、神の霊を無視してのことである。
神は遠くにおられるのではなく、私たちの命に居られ、私たちの行いや心の中の考えまで見ておられる。無視している時も、逆らっている時も側に居て、命を守っておられるのである。
もし神が遥かな高みから人を見下ろして、私たちが砂粒のようなものに過ぎないなら、そんな罪や汚れに痛むことも、そのあり様に悔やまれることもないだろう。
心の動きまで知るほどに近くにいて下さるゆえに、神の形に造られたものが様変わりして行く姿を悔やまれたのである。
神は永遠を見通す御方であって、失敗されることなどあり得ないのである。ただ、神が創造された作品に自由をお与えになったとき、不自由になられた。
最上の作品が自由意思によって堕落して行き、さらに神の御手から離れて楽しむ者となり、人からのものによってのみ生きるようになって、元に戻す手段が失われた。
主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」(5~7)
地に在るすべてを神は人の支配に委ねられたゆえに、人の祝福によってそれらは祝福され、人の堕落によって、それらもまた共に滅び行くのである。
しかし神はノアという一人の信仰によって、すべての生きものの望みを繋がれた。