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何によって救いの確信を得ているのだろう・・と、ふっと不安になることがある。もし、本当に悔い改めによって救いが得られるのなら私は救われない。悔いることは数あるが、改めることのできないだらしない者だから・・。でも、救いの根拠は神様のことば聖書にあった。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:41~43)
彼は、確かに自分の罪を悔いたように思えるけれど、改める間もなく救われている。
姦淫の女はただ御前に居ただけである。彼女は罪の告白もなく赦されている。
「今から決して罪を犯してはなりません。」と戒められたが赦しの条件ではなく、彼女の将来のために言われたことだと思う。
アダムとエバは罪を犯して園から追放されて後に互いを知った。
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。(創世記4:1)
神様が人を造られたときの「地を満たす」計画は、罪を犯してのちに始まった。「食べると必ず死ぬ。」と戒められた善悪の知識の木の実を食べた後の、殺されるべき時から、人を生かす命のリレーが始まったことになる。
神様は弟殺しのカインも殺されなかった。神の義においては命には命をもってあがなうものであるけれど、神様の忍耐によって彼の子孫は増えた。殺されたアベルから見れば理不尽なことでもあるが・・。
神様の祝福の計画は成る。人のいかなるかに拠らず・・、これほど人にとって安心なことはないではないか!
アダムとエバを追放されるときに、神様は革の衣を着せて恥を覆ってくださった。今も御子の十字架の血により、一方的に罪を覆われて生かされているのだ。
罪の告白もなく一方的に赦されたのだから、「あなたもそうでありなさい。」と言われた。だから、言いたいことが山ほどある人に、おでんを炊いて小雨の中をバイクで行って、「私が食べたかったから作った・・」と置いてきた。
主へのささやかな感謝の形・・帰り道雨は強くなってきたが、「雨を降り注ぎ恵み給えや・・・」賛美があふれ出た。そう、彼女を顧みてください。
受けるだけで何もできないけれど、みこころに従順したいと望むなら主はその力をくださる。
そう、神様は一方的に赦してくださるけれど、ノアが箱舟を造らなかったら人類は滅亡していたかもしれない。祭司が激しい流れを恐れずに一歩踏み出さなければ、いつまでもエジプトの奴隷のままであったかもしれない。
人が従順しなければ神様のわざを見ることができない。値なく与えられた救い、一方的に憐れまれた身は主に期待されているのだ。くびきを負ってちょっとお手伝いをすることを・・。
しかもそれは辛いものではなく、神様のわざが現れるための、とんでもなく大きな祝福を見せていただけるチャンスなのだ。