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その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカ7:37~38)
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。(ルカ7:39)
人は皆罪を持っているので罪の大小を問うが、罪が存在しない神が問われているのは罪の有無である。パリサイ人は自分に罪を認めないが、イエスさまから見ればこの女と同じ罪人である。
女は自分の罪の重さ故に罪を悔いて赦しを求めたが、パリサイ人は自身の罪については考えたこともないのだろう。
主が人の罪を忍耐してこの世での時間を与えておられるのは、罪に気付き十字架による罪の赦しを受けるための時間である。罪に気付かない者には、十字架の神の愛を経験するチャンスは無いのだ。
わたしは「この女の多くの罪は赦されている」と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。
そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。(ルカ7:47~48)
罪深い女のイエスさまに対する所作のすべては、赦された感謝にあふれる愛に拠ること。それを「あなたの信仰」とイエスさまは言われた。この信仰とは「赦しの確信」である。
イエスさまは罪の赦しを、女が多く愛したことで与えられたことは不思議だ。罪の赦しには罪の代価として御子のいのちが支払われなければならない。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
イエスさまの罪の赦しは十字架の先取りなのだ。彼女の罪の代価はやがてご自身のいのちをもって十字架で支払われる。
女の行動はまるで十字架を見ていたようである。愛は予感するものなのだ。