「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。(25)
キリストが知らせてくださったことは神の愛。御子をたわるほどに神さまに愛されているのが、誰あろう自分自身であることを知らされた。
それが知識に留まっているなら、キリストも十字架も歴史物語で終わることだった。
そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(26)
生まれつきの私たちにはおよそ相応しくない愛ゆえに、それがどれほどのものであるのか、思い浮かべることさえできない。
それゆえ、イエスさまが私たちのうちに来て知らせ続けてくださる。状況や、環境や、体調、人の評判の良い時も悪い時も、少しも変わらない神の愛に安らぐことを・・。
この世の愛とはまるで違う一方的な神の愛。
清さも、美しさも、賢さも、可愛さも無く、従順でさえ無い者を、御子のいのちを与えるほどに愛する神の愛。
注がれる愛を受け続けることによって、そのように神が愛しておられる人々を知るようになる。
ただ、どんなに大きな祝福を経験しても、みことばの備えの無い経験は、たまたまの幸運と消費されて賛美とはならず、感謝ともならず、永遠のいのちにつながることはない。その中にある神の愛を悟ることはないのである。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:17~19)
イエスさまが命じられることばは、必要をすべて満たして従う力を備えていてくださる。主はご真実だからである。
その愛がどれほどのものであるかを悟るようになる時、うちに満ち満ちる愛に触れて、自分と同じように人々を愛しておられることを理解するようになる。キリストの愛があふれて出て行くようになるまで・・。