石ころ

十戒⑥ (出エジプト20章)

 

姦淫してはならない(14)

この命令にある、神の基準をイエスはこのように解いておられる。

わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

 

律法を全うできる「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)ということである。神の聖さは他人や昨日の自分と比べて、今日は少しでもましであるというようなものではないことがわかる。

 

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ3:11)

 

すべての律法を成し遂げてくださったキリストを信じるときに、キリストに在って十字架で罪を処理された者が、よみがえられたキリストのうちに在って神の義をたまわるのである。キリストの完全によってのみ神に義と認められたのである。

 

 神が律法を与えられたのは、神の民にキリストを求める必要に気付かせるためである。
人は出来ないことを認めるときに助けを求め、助け主を求めてキリストに来る。その信仰によって義をたまわるのである。

しかし彼らは律法を用いて、罪人を神の前でいけにえとすることを選んだ。彼らが神を知らないからである。

 

わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。(ホセア6:6)

 

律法を守れるかのように、神のことばを差し引いたり付け足したりして、自分自身を誤魔化し続ける時、みことばの真意に対して盲目である自分の惨めさに気づかないことは罪である。

 

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(ヨハネ9:41)

 

 律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。(ヨハネ8:3~4)

 

この女性は、姦淫の現場で捕らえられたとあり、姦淫の罪を犯したことは事実である。しかし彼らはこの女を捕らえたことで、自分たちの義を証明していると勘違いしている。罪を暴くことで自分の義が証明されるわけではない。

 

律法学者の目的は、イエスが律法に従って女に石打の刑を宣告する時、民衆にイエスの説く愛を疑わせることにあり、あるいは、石打ちの刑を破らせることで、法を犯したイエスを訴えるためであった。彼らは巧妙な罠をしかけて、どちらにしてもイエスの立場を危うくする計画である。

 

義を売り物にしている彼らの企みと、姦淫の女の罪を天秤にかけたとき、どちらがより陰湿、より深く罪に侵されているか分かりやすい例である。罪は天秤に掛けられるようなものではないけれど・・。

 

詰まる所、彼らにとって姦淫はイエスを追い詰めるための道具であり、不義を憂いて正義を愛しているのでもなく、姦淫と言う罪を罰する目的もなく、イエスを失墜させるために仕掛けたことであった。

 

イエスがもっとも嫌われるのはこのような輩である。一片の憐みも持たず、自分の目的の道具として罪人をさらして正義をひけらかす、それは神が造られた人のありようとは、あまりにもかけ離れた偽善者の姿である。

イエスは時を置いて一言で彼らを追い払われた。

 

彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

 

イエスは、明らかな罪人である女に、彼らのように「この女」とは言わず「この人」と呼ばれた。それはすべての人に対して尊厳をもって接してくださる救い主のご性質であり、宗教者たちとは真逆であった。

 

それでも、神に対する罪の意識が明確なユダヤ人は、イエスの言葉に老人から去って行って女だけが残されたとある。

他人と比べて量るだけで、神に対する罪の意識が曖昧な日本人なら、石を投げたのではないか・・と、憂いてしまう箇所である。

 

彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

 

女は二度と罪を犯さなかったろう。イエスの言葉には力があって、聴いたとき従う力が伴うからである。人間は何の保証も与えずに命じるが、神のご真実は、従いたいと願う者に力を与えて命じられるからである。

 

この女はイエスに愛され新しい命を得たのである。この事実は生涯彼女に愛を満たし続けるからである。キリストに出会って生き方が180度変わるのは、導く聖霊の守りと、生きて働く神のことばを知るからである。

 

 また姦淫とは、創造主以外のものを頼りとすることを指している。偶像を造って拝むことは、神に造られた身を偶像に捧げる行為である。世の名誉や金銭に頼む生き方も、それらを神とする行為である。

 

神に造られた者はみことばに拠って生きる者であり、キリストの愛の中に生きることこそ、救われた者の純潔である。
そのとき神はすべてのことに渡って祝福して、永久に変わることのない愛の交わりに居らせてくださる。この世に生きている間も召された後も・・。

 

イエスの赦しは何時も無条件である。「どうしてほしいのか」とは問われても、「罪をどのように悔いて改めたのか」と尋問されることはなかった。

 

それはイエスが罪人のすべてをご存じで、十字架の愛によって罪から解放する力を持っておられたからである。
弱さゆえの罪は愛の渇きから来るものであり、神の愛に触れるとき深い感動と感謝の中で、自ずと罪を否むようになることを知っておられ、神を愛して生きることをご存じだからである。

 

しかし、宗教者の罪は覆いようもない。彼らは弱い者の罪を責め立てて支配し、律法を守れない者を責め立てることで、自らを義として疑わないからである。  
彼らは中身の腐った白く塗った墓であり、神に敵する蝮の末なのは、律法に対しての盲目を悟らないからである。彼らの姦淫は自分の義であった。


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