石ころ

キリストにいる者は罪を犯しません(Ⅰヨハネ3章)

 

私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1)


御子の十字架を通して神の愛を知ることが出来たのは、神さまが初めに私たちを選んで、良いご計画を準備してくださったからである。
かっては世に在った私たちも真の神を知らず、知らない方ゆえに求めることも出来なかった。ただ、神の救いのご計画によって、キリストに出会わせてくださった者なのである。


だから、今神を知らない人々に対しても望みを持っている。その方がキリストに出会う日は、今日、明日かも知れないという望みである。
神さまが誰を選ばれたのか、その選びに誰が応答するのかはわからないなので、私たちは救われることを祈りつつ期待しているのである。


愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(2)



「キリストをありのままに見るからからです」新改訳2017
目に掛かっている肉の覆いを取り払われ、無知による偏見を取り去られ、目の中の梁を取り除かれて、霊のからだのキリストを真っ直ぐに見上げるのだろう。ハレルヤ!その時私たちは本当にキリストを知り、まことのキリストの姿に変えられるのだ。


キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(3)


罪の奴隷であった時には、悩みと苦しみの中で自分と戦っても勝てなかった罪から解かれて、今は、新しく生まれたいのちによって、きよく生きる自由をたまわったのである。罪のあがないにとどまることによって、きよくあることも叶えられたのである。


キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。(5~6)


「キリストのうちにとどまるなら罪を犯しません」みことばは神の保証である。私たちが罪と戦って勝ち取ることではなく、みことばにとどまることによってたまわる義である。神は侮られるような方ではないから、必ずそこのとを私たちに成就してくださる。


だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9)


神の子に対する神の保証である。罪は悪魔から出て、人がそれを心に住まわせるとき自分を汚し神の敵となる。
キリスト者の中に置かれた神の種は、キリストに似る神の子が育つ他なく、それは悪魔とは異質であるから罪がとどまることはないのだ。


夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)


種は努力無しに、神が備えられた通りの性質をもって成長し、完全にされて神の栄光を現すようになるのだ。すべては神のことばの成就によることである。


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