民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。
彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」(18~19)
彼らは天地創造の神を、これらの出来事の中で改めて認識し、神を畏れ敬うことを身をもって学んだ。頭で学んだだけではすぐに忘れ去ることも、五感を通して体で経験したことは記憶に焼き付けられる。
このとき彼らはモーセに逃げ込み身を守ろうとした。
キリスト者はキリストの中に身を避けて背きの刑罰を免れ、義の衣を着せられて日々主の御交わりに置かれている。神は昔も今も同じであるが、今は恵みの日である。
それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」
民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。(20~21)
神が律法をもって来られたのは、「彼らを試みるため」とある。神の戒めに対して真実であろうとするなら、その場逃れな約束は出来ずに、憐みを乞い助けを求めて叫んだであろう。試みはみことばには真剣に、真っ正面から答えなければならないことを学ばせる。
モーセは黒雲に近づいて行った。
私たちは主のうちに居らせられ、日々自由の中でみことばに親しみ、主はご自身を語り聴かせて、すべてのことを願い求める交わりに置かれている。これはなんと驚くべきことであろう。
主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。
あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。(22~23)
神は重ねて偶像を造ることを戒められた。それは彼らが間もなく犯すことをご存じだからである。そのとき彼らがはっきりと思い出して、律法の意図を察するためである。そう、こんなに単純な戒めさえも守れない者であることを悟るために!
あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。(24)
今も昔も神が求めておられるのは愛する民との御交わりである。御名を呼んで慕い求め、信頼してすべてのことを主により頼む者に、「あなたに臨み、あなたを祝福する」と言われる。命じられたのは難しいものではなく土の祭壇である。
荘厳な教会の格式のある礼拝を望んでおられるわけではなく、身近な所に在って絶えず主を覚えて、より頼み続ける礼拝である。命令の目的は「あなたを祝福する」ため。
もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。(25)
主が造られたままの石に、人が刃物を当てて刻むものは人の心に思い描いたものであり、人のエネルギーを注ぎ込んで形造ったそれは、人を感動させ満足させそれを神のかたちとする。それは被造物が創造主を造るという反逆の行為である。
あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。(26)
今、主はキリスト者のうちにおられる。私たちは主と共に住み絶えず主を礼拝している。その礼拝の場は土から造られた脆い人のうちに在るが、その時人は裸のままであってはならない。必ず信仰によるキリストの聖い衣を着ているのである。
私たちの礼拝の場は高い所に在るのではなく、あらゆる問題が満ちている世の中に地に足を付けて立ち、聖霊の導きによってキリストの平安を証するのである。