
お返事が遅くなりました。
先日話し合っていたレビ記10章を読んでいました。
主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげて、主の前から出た火によって打たれたナダブとアビフは、どうも酔っ払っていたようですね。9節で主がアロンにが忠告して居られますから・・。
彼らが以前イスラエルの神を仰ぎ見た。(出エジプト24:9)それほどの素晴らしい体験をしていても、このように死に方をすることは衝撃ですが、私たちも堕ちるのは一瞬なのでしょうね。だからイエスさまにより頼むのですが・・。
人は酔っ払うと自制心を失ってコントロール出来ない状態になりますし、それほどでなくても注意散漫な状態になり、それは敵には実に好都合な状態だと思います。
また、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)とありますね。
「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」とイエスさまは忠告されています。
その時、主の裁きに対してアロンと会衆に対するモーセの指導は、今も従順のモデルとなると思いました。
主の裁きに対しては感情的になるべきではなく、つぶやくことなく、ただ裁きの結果を全員で悲しみつつ受け入れよと・・、従順こそ聖さだと思います。悲しみを共有することは禁じられてはいないのです。
誰が、何処で、何を食べるのかと言うことについて、それは祭司であることを覚えて、聖なる所で、最も聖なるものをと書かれています。
単に教会だから良いのではなく、言い伝えにもよらず、それぞれ主におかれた場所だと思います。
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:16~24)
何を食べるのか、それは此処ではモーセが懸命に探していたという、いけにえの山羊。それはイエスさま。それは祭司の賜った最も聖なる食べものであり、会衆の咎をのぞき、彼らのあがないのためとあるので、ひとり祭司のために食べるのではないことがわかります。
その血を聖所の中に携え入れなかったとモーセが怒っています。
確かに祭司とされた者は常に主の血を携えて、聖なるところでイエスを食しているべきです。
また、6章ではやはり祭壇の火はそれを消してはならない。とあるので、一日中燃え続けるのだと思いました。
ひと晩中全焼のいけにえを燃やし、朝には薪をくべてその上に全焼のいけにえを整え、和解の脂肪を煙にする。
火は、イスラエル人を導く火の柱・・ダニエルには燃え移らない火・・聖霊と火のバプテスマ・・ペンテコステの火・・燃え尽きない柴の中の火・・ハデスの火の池・・ナダブとアビフを打った火、
火は、祝福も裁きもすべて主の権威を現しているように思います。だから私たちの内に火は決して絶やしていけないのだと思います。主を覚えることを絶やしてはならないのだと思います。
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(ルカ12:49)
エジプトを脱出した民は、火の柱に導かれて闇の中をも進むことが出来ました。今のこの暗闇の時代、先の見えない時代も、主の光りの中に居るのなら、私たちも望みを持って先に進み続けることができるのでしょう。日毎に進む道を主が照らしていて下さるのですから・・この平安こそ感謝です。
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