すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。(17~18)
迫害者を、上辺だけではなく敬意をもって愛することは、キリストの御性質から出て来るものであって人の中にはない。それゆえ、キリストは信仰者のうちにいてくださる。主は御真実ゆえ、みことばを生きることができるように助けていてくださる。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。(19~20)
キリスト者には、自分に起こっていることが正当な事であるのか、不当なことであるかが問題ではなく、経験する喜びや悲しみのすべてを神の御前に祈りとして置く時、それらが神さまの喜びとなるのだ。
みことばの従順は苦しみを受けるためのものではなく、祝福を受けるためのものであり、神の喜びとなるためであって、それは私たちにとって、この上もない光栄なことなのである。
すべての出来事は、神さまが初めから終わりまでをご存じのことであり、それゆえどんな時も私たちには、平安と勝利の確信があるのである。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(21)
キリストは生涯父なる神に従順され、御自身では何も計画されなかった。無力な赤子として罪の世に来てくださった時から、十字架を通って葬られるまで、人を愛して神の御計画を遂行され、信じる者に永遠のいのちの道を開いてくださった。
このことがキリスト者の模範でありキリスト者の辿る道なのだ。しかし、私たちにはイエスさまが同行していてくださる。道々語って教え導いてくださるから、困難な旅ではなく喜びの中にあるのだ。
祈りの中でおしゃべりを楽しみつつ、励ましのみことばを聴きながら天に続く道なのである。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(22~23)
キリスト者は不当に対して戦う必要はなく、正しく裁かれる方にお任せする者である。私たちが神の子であることを証してくださる方、キリストが私たちの弁護者なのだ。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(24)
キリストは人の罪をすべて負って処理して、その事実を信じる者を弁護してくださるのである。それゆえ、神はその人を無実とされるのなのである。
キリストに救われ、新しくされて永遠のいのちをたまわった者が、ひたすら「みこころを成させたまえ」と乞い願うのは、その深い感謝の故である。
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(25)
アーメン