聖書には、「悔い改めて、救いを得よ」とあるのに、弟子達が召されるとき彼らに、具体的な悔い改めの場面はなかった。そのことに?
R姉妹との交わりで、その疑問について「どう思う」とメールした。
そのことを文字にして、みことばを開いた直後にそれは解かれた。
悔い改めとは自分の中をのぞくことでなく、ただ、十字架に行くことだって・・。イエスに付き従って行くとは、イエスの十字架に行くことである。
だから、自分たちのすべてを捨てて(ユダ以外は)イエスに行った彼らの悔い改めは、それで完全であったと気付いた。
後を追ったメールでそのことを話すと、確証となるみことばを送ってくださった。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 」 (ヨブ記42:6)
違いは自分を中心にして悔い、改めようとすること。私はこの嘘くささに苛立っていた。
人の律法的な良い行いと、主にある悔い改めのレベルの差、どうやってそれに気付くのか・・
それは自分に絶望するしかないと思う・・。
結局自分を捨てるしか無い。肉はそのことに徹底的に逆らって出来ることを陳列し、捨てられることを拒否するけれど・・。
弟子達は、自分たちのすべてを塵芥のように捨てて、イエスの十字架にまで付き従ったのだ。弱さの故に逃げたことを責められることはない。主は私たちの弱さに同情してくださるからである。彼らの悔い改めは完全だった。
自分を塵芥として退け、十字架に行く時、すべての良いもの(罪からの解放、新しいいのち)が備えられている。それ以上の悔い改めなどはない、何をしたかではなく何処にいるかなんだ。
「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)
「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩編131:2)
ハレルヤ!
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