アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。(1~3)
教会の一致は、ひとつの御霊に在る一つのからだの一致である。礼拝も、祈りも、断食も、みこころを求めて従順するためのものである。断食は人の力を削ぎ落す、神の御用に人の力は邪魔であるから。
導く方が聖霊なる神である時、結果が人の目にどう映ろうとも、永遠に在ってはすべて成功となる。
しかし、どんなに状況が相応しく、万端の準備が整っていても、人の思い付きや勢いならすでに失敗である。そこには神のご計画が無いからである。
物事には順序があり、初めに神が永遠のご計画を持っておられ、人は聴いたことを世に現わして行くのである。祈りは、人が計画を立てて成功を要求するものではない。
島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。
この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。
ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。(6~8)
すべての魔術は悪霊発のものである。どのような占いもまたそうである。それは人の心を神から横取りして支配する。そんなものに依存するなら、絶えず不安と恐れに縛り付けられ、一度っきりの人生を鼻ずらつかんで引き回し、自由を奪って滅びに引きずり込まれる。
占いは軽々しく弄ぶものでもなく、それらは悪魔の誘惑であり神の嫌うものである。
サタンはみことばさえも用いて誘惑する。キリストの導きによらぬ、人の口から出たものを求める必要はなく、私たちは、自分の口でみことばを噛みしめ、分かるまで反芻して主に直接教えられ、みことばを生きて祝福を経験させていただく者である。
主はいつも、聖霊を通しての親しい交わりを待っておられる。みことばはみことばへと繋がれて、日々にすべての必要を満たす備えがある。その導きによってキリストに依存する時、人はたまわった自由を楽しみつつ、賛美の中を生きるようになる。
あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)
迫害や中傷によって福音を阻む力があっても、そこに神のご計画があるなら、どんな場合も動揺する必要はない。
人を救ってくださるのは主である。その人は世の初めに選ばれてあり、聖霊の導きのままに語るべき言葉を準備して出て行く時、刈り取らせてくださる。
しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、
言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。(9~10)
キリスト者の戦いも怒りも此処に在る。福音を阻む者に対する正義の戦いである。この戦いは主の戦いであるから、曖昧にして退いてはならない。
キリストの十字架の救いのことばを曲げる者は、神の愛を奪って、永遠の滅びをもたらせる人殺しである。
見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。
この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(11~12)
パウロもイエスによって目が見えなくされた。しかし、パウロには神を愛する心があった。それゆえ、目からうろこは落とされ、使徒として新しく生まれる備えがされていた。
総督も、魔術師の妨害を解かれて霊の目が開かれたのである。
神を求める者には救いの御手をのべ、みことばと御わざを見せてくださるのだ。