石ころ

四十日四十夜(出エジプト24章)

 

主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」(12)

 

今は石の板ではなく、キリスト者の心の中に聖霊が記してくださった、神の愛による戒めを持っている。それを砕く者はいない。私たちはキリストに在って、滅びることのないいのちに守られている。今は本当にあり得ないほどの恵みの日なのである。

 

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(Ⅱコリント3:3)

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。
彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。 訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」(13~14)

 

ヨシュア登場は希望である。主がすべての必要を備えて救いのご計画を完成させてくださる。ヨシュアは神の山の何処で控えていたのか書かれていないけれど、静まってモーセを待ち続ける姿を想像することは出来る。
主に信頼してモーセを待つことが出来ない民との違いによって、彼が主が選ばれる理由を知ることが出来る。

 

出番を待って控える日々は、誰にも知られない神の備えの時であり、沈黙して従順するうちに熟成されるのが神との信頼関係である。
それはダビデがサウルに対して仕えた日々にも在ることである。

 

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。
主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。
主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。(15~17)

 

主は臨在を民の目に焼き付けられた。その記憶によっても民は主を恐れることを学ぶことが出来たのである。しかし・・彼らはそれを忘れて行く。信じない者はどれほど奇跡を味わっても、直ぐにその記憶は曖昧なものとなって、惑わす敵の言葉に持ち去られてしまう。

 

モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。(18)

 

ノアが経験した四十日四十夜は、箱舟ですべての死の海を漂っていた日数である。

あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生けるものを大地の面から消し去る。(創7:4)

 

エリヤが経験した四十日四十夜は、バアルの預言者たちに勝利した後、イゼベルに脅されて荒野に逃げて死を望んだときに、御使いによって食物を得て起き上がり、神にお会いするためにホレブ山に向かって歩いた日数である。

彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。(Ⅰ列王19:8)

 

イエスが経験された四十日四十夜は、公の働きを初められる前に、聖霊によって荒野に導かれて断食をされた日数である。イエスはその直後にサタンの誘惑を受けられみことばによって勝利された。

そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。(マタイ4:2)

 

神の定められた時は決まっている。主に聴き続ける者にとっての試練には限りがあり、それは神の良きご計画である。
疲れ果てて何できなくなり、エリヤのように待たなければならない時がある。待つには信仰の先人の日数を知っていることは助けとなる。

 

聖書の知識がいのちを守る。みことばを心の倉に蓄えることこそ、キリスト者の安全安心であり、蓄えがあれば聖霊がみことばを思い出させ、解き明かして力を与え、主に出会わせてくださる。


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