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また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』(ルカ11:5~6)
断られてもしつように頼むと与えてくれると話されたが、普通はこんなことはあり得ない。
しかし友人がイエス様なら、真夜中に来られることになんの不思議もなく、自分に無ければ熱心に探し求めて当然だと思う。
私たちはそうするべきで者であるから。その時には、夜中であろうと時を選ばず人の迷惑も考えるべきでない。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
(ルカ11:9~10)
私たちがこれほどに熱心に求めるものはただ一つ、それはイエス様の必要を満たすためのもの。
天から下ってきてくださった友なるイエス様。わが花婿。我が主。
イエス様が求められるものは私たちとの交わり。私たちも主を求めるなら、真夜中に走り回っても必要を満たすだろう。私たちのうちに留まって頂くために。
あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)
聖霊の求めは、ただ、ただキリストなるイエスを知りたいと、花婿との愛を深めたいという動機から発するものである。
その関係は、イエス様を産んだマリヤ以上であると書いてある。
聖霊によらずにイエス様のみこころを知ることは無く、私たちから出る良い考えはすべて的外れであるから、聖霊は通訳のように聖書を解き明かして私たちにみこころを教えてくださる。甘い愛の言葉を聞かせてくださる。
学校で学んだ知識や能力でどれほど読みこなしても、聖霊の助けがなければ単なる人の知識に過ぎず、主の必要は満たせない。その実は秋のイチジクであっても、主が求められる春のイチジクではないのだから。
翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)