息子が以前から買い揃え続けてきた部品が全部そろったからと、木曜日に休暇を取って帰ってきて組み立ててくれた。すべてこだわりの物ばかりだと自慢しても、気の毒だけど私にはかいもくわかっていない。
ただ、「できるだけ省エネに、そして静かに」それを繰り返すばかり。しかし、息子はスピードにも機能にもこだわりがある。その折り合いが課題だったらしい。ビスタにも対応しているけれど当分はxpのまま、私もそれには賛成。というか、それで私には十分であるということ。
私はもちろん何もわからないけれど、結構野次馬なので横から興味津々で覗き込み、これは何かと質問を繰り返すが、我慢強く教えてくれることにちょっと驚いた。私はこういう立場だったらきっといらいらしてしまうと思うから・・ 。
料理などしているときに横に来て、これは何かと彼に質問されると面倒になって「邪魔だよ」と説明をほとんどしないことが多いなあ・・。子供のころには何から何まで丁寧にしつこく教え続けたのに、もうすっかり教育しなくなってしまった。
本当に、近頃は会社に対して「育ててくださった」と感じることが多い、私に対する我慢強い説明もそのような環境から来ているのだと思う。同じところに長く勤めて、そこで丁寧な教育を受けることができることはとても感謝なこと。その場所に導いてくださり、その場所を守ってくださっているイエス様に感謝をするばかり。
画面に並んだ文字を見ていて
「こんな英語が読めるのか」と問うと
「英語じゃないよ。まあ、コンピューター語。これが読めんかったら仕事にならん」
ちょっと偉そうに聞こえた。
「でもさ、全部私が教えたことから出ているんだよ~『ママ』という言葉を教えたことから始まっているんだから。」さすがにこの言葉は心の中で言っただけ・・。
一度も「耳を不自由に生んでごめんね」とは言わなかった私。そんな事は死ぬときも言わないだろう・・。ドラマでそういう言葉を聞くことがあるが私の大嫌いな台詞。「選べるものなら誰が不自由になんか生むものか」という怒りがでてくる。理不尽なことを謝れるものか。なぜ、そういう台詞があるのだろう・・。彼の立場に立って一応謝ってあげるのだろうか・・やはり嘘っぽい。
彼の障害によって家族がイエス様を知り救われたのだから、そのことは彼が生まれてきたことの明確な意味であり祝福なのだから。私たちは顔を上げて主を賛美しよう。
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しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)